ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「カフカ マイナー文学のために」

Gilles Deleuze + Félix Guattari「Kafka: Toward a Theory of Minor Literature」


未読の「アメリカ(失踪者)」を加えて「訴訟(審判)」「城」の三作品(Kの物語)を読もうかなということで、かなり大回りの迂回路を通っている最中。カフカはフェリーツェ・バウアーとの婚約を2度破棄し結局結婚に至らなかった。なかなか結婚しようとしない彼にしびれをきらした彼女やその親族に、ホテルの部屋に呼び出され、一種の訴訟を経験したことを、ドゥルーズガタリはしばしば引き合いに出す。法の契約を無限に引き延ばすこと。以下にヒントを抜粋。
後書きによると、ドゥルーズカフカ論では「新しい測量師/Le nouvel arpenteur」も重要らしいけど、これ邦訳はあるのでしょうか?


カフカは、まだ知られていない超越的な法のまわりをめぐりながら、非連続のブロックまたは分け離された断片という原理を捨てないだろう。……われわれは、そこに…いくつかの構築物を付加しなくてはならない。この構成物は、帝国的な超越的法が内在的な司法、司法の内在的鎖列に事実上かかわっていることがKにだんだんよくわかってくるときの、長篇小説の諸発見に対応するものである。偏執病的法のかわりに分裂病的法が、外見上の無罪のかわりに、判決の無期限の引き延ばしが現れる。社会的領域における義務の超越性のかわりに、この領域すべてを通しての遊牧民的欲求の内在性が現れる。


法の超越性は、抽象的な機械だった。しかし法は、司法の機械状鎖列の内在性のなかにのみ存在する。「訴訟」とは、あらゆる先験的な正当化をこなごなにすることである。欲求のなかには裁くべきものは何もない。裁判官自身が欲求で充満している。司法も単に欲求に内在するプロセスにすぎない。プロセスはそれ自体がひとつの連続体であるが、それは隣接性からできている連続体である。隣接したものは、連続したものに対立するのではない。むしろその逆で、前者は後者の部分となる構築物、しかも無限定に延長できる構築物であり、したがってまた分解でもある。ーつまりそれはいつでも、隣りにある事務室、隣りの部屋である。……司法とは、可動的でいつでも位置が動く境界線を持った、欲求のこの連続体である。


独身者が主体でないのと同様に、集団性は言表行為の主体ではなく、言表の主体でもない。しかし、現実的な独身者と潜在的な共同体は、集団的な鎖列の部分である。そして、主体が言表を生産するように、鎖列も言表を生産するというだけでは十分ではない。鎖列はそれ自体において、何らかの点で確定できる主体に席を譲ることはないが、しかしそれだけ一層言表の性質と機能とを示すことを可能にするような、ひとつの訴訟のなかでの言表行為の鎖列である。
Kが誰であるかを問うのがむだなのはこのためである。Kは三つの長篇小説で同じ人物であろうか。あるいはそれぞれのばあいで異なっているのか。せいぜい言えることは、カフカが手紙のなかで、分身もしくは言表行為の主体と言表の主体という二つの主体の外見を完全に利用しているということだけである。