ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症(下)」

Gilles Deleuze + Félix Guattari「Anti-Oedipus」


ドゥルーズガタリによる、フロイトを全面批判する論文。彼らは勿論、フロイトの偉大な功績は褒め讃えるけれど、彼が産み落としてしまった胤の罪深さ、彼の後継者たちを陥れた罠を、根本から批判している。ただし彼らはラカンの業績についてはむしろ肯定的で、それ故、ラカンを読み誤ってしまったラカン主義者たちを徹底的に叩いている。
さてこれは自分の身体のこと、資本主義のただ中を生きる人間の精神と身体のことだから、この際多少の不純物が混ざってもいいから、身近なところまで論を引き寄せてしまおうと思う。いま現在の日本では、まちがいなく資本主義に基づく経済原理が台頭している。例えばここで、よき体現者である株式会社、しかも広く一般から資本を募る上場企業を思い浮かべてみる。給与所得者、雇われ経営者、工場労働者、監督者…彼ら構成員は基本的には、企業原理に基づいて各地と転々とし、あるひとつの土地に縛られるということがない。彼らは構成員である限りは、会社という大きな体制の中のひとつの要素として機能し、それが全体で得る利益の分配を享受する。自分の領土を持ってそこからの生産で社会生活に参加する訳ではないのだ。そう、農業ですら資本主義においては、大規模農場が主役となり、土地を持たない雇われの小作農と、彼らを束ねて効率よく農場を運営する経営者が現れる。いや、勿論かつては違った。たとえば封建社会においては、人々は自分の土地を持ちそれを家族で耕し、長子相続と称して代々土地を受け継いだ。そして土地をたばね統括する領主もいた。彼らはみな土地からの生産で社会生活を送っていたから、それはつまり領土に縛られていたということだ。しかも、この封建社会においては、家族というまとまりがはっきりと、家族制度、として社会を支えている。例えば、先祖伝来の土地を離れず血縁によって相続させていくこと、農業運営が家族によって行われること、領主も原則は血筋の者が後継者に指名されたこと。
ドゥルーズガタリは「脱領土」化した身体のことを述べるのだが、これは実体生活の中ではこのような変化として表面化する。資本に関するマルクスの言説にも示されているとおり、資本が大きなひとまとまりの体制として作動するとき、人はその中では労働価値を提供するあるひとつの機械としてしか考慮されない。資本機械を動かすひとつの部品であり、資本機械に忠実な下僕である。特にそれの経営者に対して、ドゥルーズガタリの言葉は手厳しい、「ブルジョワは、最低の奴隷よりももっと奴隷的であり、飢えた機械の第一の服従者である。資本を再生産する動物であり、無限の負債を内面化するものである。」人々の身体が十分に資本主義にさらされて家族制度から遠のいた今、それでもなお、家族制度の亡霊を呼び覚ますことが有効であるはずがない。


フロイトは、無意識の構造を解明するために、しばしば家族制度、特に父権的な制度を持ち出していた。彼は20世紀初頭の精神病院において、患者の精神疾患を分析するときに、臨床の段階においては例えば「父と母が性行為をする場面を幼少期に見たことが無意識に刷り込まれている」、それら臨床結果を普遍化する際には「母にペニスが無いことを発見した去勢不安、メランコリー」という具合に、家族制度を持ち出す。勿論フーコーが指摘してくれている、当時の精神病院は、非行矯正の意図を含んでいることが多く、ときには家族の希望によって患者が収監されることもあった、ということを。フロイトは、彼ら被矯正者と彼らの父親とを仲裁する役割も果たしていたからこそ、家族制度に拘泥しがちだったのだろう。そして彼は、父を殺し母を犯したオイディプス、家族制度の権化をつくりあげてしまった。このようなフロイトの誤認、後世に多くの迷い子を産み出した誤った道先案内を、ドゥルーズガタリはこう表現する、「法はわたしたちにこういう。おまえの母と結婚するな。おまえの父を殺すな。そこで私たち、従順な家来は、こういうのだ。だからこそこれが、私が欲していたことなのだ。」われら従順なる家来は、法が禁止している事項こそがまさに、私たちがどうしても欲してしまうことなのだと勘違いしてしまう。フロイトがこの法をオイディプスというイメージであまりにも上手く表現してしまったために、わたしたちはオイディプスの罠からなかなか抜け出すことができない。「オイディプス・コンプレックスは、欲望に対しては、区別された両親という人物を対象とすることを強制するとともに、同時にこれと相関する<私>に対しては、これらの人物によって欲望を満足させることを禁ずる。」フロイトは、無意識のうちでの近親相姦への欲望を無理強いするとともに、近親相姦を禁止する。「オイディプスは私たちにこう語る。君は、排他的離接を統括する示差的機能を内面化しなさい。そうすれば、オイディプスを「解決することができる」ーさもなければ、想像的な同一化によって、神経症の闇の中に落ち込むことになるだろう。あるいは、またこう語る。君は、三つの項を構造化し区別する三角形の線にしたがいなさい。ーさもないと、君はいつも三角形の一項を、まるでそれが他の二項に対して余計なものででもあるかのように作用させることになる。そうして君は、いつも同一化して無差別になる二者関係を、あらゆる方向に再生産することになる、と。しかし、いずれにしても、ここにはオイディプスがいる。だから、すべての人びとは、精神分析オイディプスを解決すると呼んでいることが、何のことなのか知っているのだ。それは、オイディプスを自分の中に内面化して、外部の社会的権威の中で、それをさらに再発見すること、こうしてオイディプスを分散させ、子供たちの中に移すことである。」自分のなかのオイディプスを認めよ、それは社会生活におけるさまざまな抑圧についても遡及可能な事実だ、とフロイトは誤って号令をかけた。そう、それは誤りだった、本当はもう父は死んでいたのに、それをわざわざ仮想して新たに殺しなおす必要なんてなかったのだ。
ラカンは、このフロイトの誤った号令に惑わされることがなかった。「確かに彼(ラカン)は、オイディプス的構造によって無意識を封じこめてはいないのだ。彼は反対に、オイディプスは想像的なものであり、ひとつのイメージ、神話にすぎないこと、またこのイメージ、あるいはこれらのイメージは、オイディプス化する構造によって生産されるということ、さらにこの構造が作動するのは、それ自身は想像的ではなく象徴的である去勢の要素を再生産するかぎりにおいてでしかないことを示している。」
ドゥルーズガタリがこう述べるとき、彼らはすでにひとつのことを結審している。それは、法という制度のほうが、情動や意識の構造に先行する、という事実である。彼は、資本主義の台頭する中で未だにオイディプスという家族制度の亡霊を呼び覚ますべきではないと述べて、ではどのような仕組みが無意識構造を分節するのか、ということを追求した。そこで彼らが発見したのは、マルクスが見出したような、資本機構の一部品としての身体、一部品になりうる器官なき身体だった。資本主義において資本が拡大していくのは、実体のない剰余価値においてであって、投下資本以上のものをただそれが機械として作動するだけで産出できる。その中では、かつては「父を殺すな母を犯すな」という言葉によってつくりだされた欲望を、今度は欲望をつくりだすのに、ただ機械を作動させるだけで済んでしまう。ただし勿論、欲望はつくりだせても、その対象はない。「欲望には対象が欠けている。したがって世界は、あらゆる対象を含んでいるのではなく、少なくともひとつの対象を欠いている。それがつまり欲望の対象なのである。」


器官なき身体、そしてリゾーム(根茎)については、「資本主義と分裂症」の後編「千のプラトー」で存分に展開されているようだ。ひとまずこの上・下巻あわせて、考え方のまとめ。本当にわたし理解できてんのかなー、と思いながらキュルキュルしながら読んでいたら、下巻の266ページから一気に視界がひらけた。おもしろい本だと思います。