ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症(上)」

Gilles Deleuze + Félix Guattari「Anti-Oedipus」


別の本のタイトルでドゥルーズが「critic and clinic」などと楽しげに述べているとおり、精神分析に関係する批判にはやっぱり臨床はつきものでしょ。という訳で、さあ診察室のソファに座ろうか。……最近、と言ってもここ数年のことだけれど、都心部に建つビルでコーナーが面取りしてある形のもの、円形平面のもの、上層階がなめらかに細くなっていくもの、あれらを見ると男根を連想してしまって仕方がないんです。特に最近建ったビル。タワーに付属する低層部の形状が球体なので、ひどく困惑してしまって。しかもこの間ふとタワーを見上げたら、先端から白い煙を細く吐き出していたんですよ……という相談にフロイト先生ならばこう答えてくれるだろう。いやあなたはそこに失われたファルスを見出しているんでしょう。女性なんだからメランコリー。仕事、建築なんでしょ?そうやって、失われたもの、でも本当は持っていた経験すら無いもの、再生しようとしているんじゃないの?
でも実際はそんなことじゃないだろう。街区の形状は普通四角形だから、四角形ではないビル形状は逆に街区というものを感じさせない。つまり、区分けされていない広い大地を想定させて、そこに建築をする、という意志が形に現れている。そしてわたしはすでに知っている、パリの広場の中心にあるオベリスクも、伊勢神宮遷宮後の敷地にぽつんと残される木の杭も(←ですよね?)、母なる大地に突き立てられた男根を意味し続けたということを。別にメランコリーの議論に回収させる必要なんかない、建築行為の文明史的な意味合いが、よく表現されている形だということで、偶然こういう職業だから余計に繊細になってしまうだけだ。


フロイトオイディプスの罠に囚われてしまうと、世の中には男性と女性しかいなくなるのがつまらない。多様な性体験が認められなくなる。
読売新聞主宰の「発言小町」みたいな読者投稿サイトでしばしば、「異性の友人ってありうるの?」という類いの議論が賑やかに行われることがある。みんな楽しげに自分はこうです〜と主張するのに終始して、決まって議論は収束しない。彼女たちの告白を読んでいると、「異性の友人なんてありえない!」と述べる人は、男性と異性とがぴったりと折り重なって一致しているようで、その一致ぶりは人為的としか思えないほどにあまりに奇跡的だ。同性/異性というのは集合と補集合の関係だから、そもそもの定義からして完全に全領域をカバーできている。でも男性/女性は違うだろう。家族制度を構成するペアとして性格づけられた、性的な対象として社会的に認められた組み合わせに過ぎない。この2つの性だけで全領域をカバーできるかどうかは論理的には定義不可能だ。であるにも関わらずこの2つの区分がぴったり折り重なるような精神構造というのはむしろ、そのような精神構造を持つように身体が矯正されてしまっているということだ。
仮に現在ひろく認識されている2つの性をA性・B性とし、もうひとつC性を付け加えてみる。A性・B性・C性・…はある集合から要素を拾い上げる指標に過ぎないから、お互いに重なることもある。現在の社会制度ではC性は認められていないけれど、フロイトの家族制度が崩壊した今、A性とB性の組み合わせだけを性的なカップリングにしなければならないという言われはない。また、A性の立場から見ても、自分にとって異性であるものが必ずしもB性ではないから(C性・…も異性)、いわゆる「異性の友人=異性だけれど性的対象にはならない人」が存在しうる。
ただし、まだ社会的に認められていない、例えばA性とC性の組み合わせは、生きやすくはない。Cという文字をあてがったのは実は、単にアルファベット順であるばかりではなく、Childという意味も含んでいる。幼児性をひとつの性的魅力としてとらえる場合、男性/女性という区分は不毛だ。外見だけではその区分は見分けることができないし、それよりも無垢さ、純真さのほうがより顕著な特徴としてあらわれる。幼児性を愛することは精神異常なんかではない。ただ、幼児性をとりわけ愛する人たちが、彼らの欲望をうみだす機構として、男性と女性との組み合わせでは許容されていた行為を借用してしまった、それが許しがたいことであったために、幼児性愛そのものが悪であると見なされただけのことだ。父と娘は彼女の幼児期においては一緒に入浴する。ところが、娘が社会的な性を受け入れ、自分は女性であり父は男性であると矯正された途端に、彼女はパパとお風呂に入ることを拒否する。彼は彼女の幼児性を愛していた、彼はそこで手痛い失恋をしてしまう。幼児性は序序に失われ、「わたしは接吻をして嘆息つく。/あなたが大人になったなら/あなたの顔が見れなくなり、/きっと、わたしは淋しかろう。(W.B.Yeats、人称改変)」
ところで「発言小町」に倣って他愛ない発言をしておこう。(あの賑やかでわいわいした雰囲気はとても好きです。)自分は異性の友人ってアリだと思います〜。てゆか今までに同性に会う機会が少なすぎでした〜。あ、好きになるのは今んとこ男性だけなので、幼児とはまだうまく仲良くなれなくてついつい力はいってしまうし、女性ともうまくやっていけないことが多いし、だからきっと私には、ソコソコ生きやすい生が待ってますね〜。