サミュエル・ベケット「名づけえぬもの」

Samuel Beckett「The Unnamable」


……おれがいま言っていることや、できればこれから言うだろうことは、もうなくなったことか、まだないことか、一度もなかったことか、絶対にないだろうことで、もしあったにしても、もしあるにしても、もしあるだろうにしても、ここにはなかったこと、ここにはないこと、ここにはないだろうこと、よそのことだ。だがおれはここにいる。…………それからおれがなんであるかを言おう、もうとりかかっているわけだから、さっきこわくなってやめたところからやり直せばいい。おれは、言うまでもあるまいが、マーフィーでもない、ワットでもない、メルシエでもない、いや、これ以上名前をあげるのはごめんだ、そのほか名前まで忘れちまった連中のどれでもない、みんなおれに向かっておれが彼らであると言いやがった、おれは彼らであろうと努めなければならなかった、しかたなしに、こわくなって、自分というものを認識しないように、なんの関係もないのに。おれはそんなことをただの一度も欲しなかったし、求めなかったし、しょいこまなかったし、なにひとつ知らなかった、…………まず最初に自分が存在しなかったかのようにふるまっておいて、次に自分が存在したかのようにふるまわなければ、自分がいるわけでもなくいないわけでもない場所、そういう表現を余儀なくさせる言葉までが沈黙してしまう場所で、休息の権利さえ手にはいらないというのは。…………そいつには人間らしいところがひとつもないし、ほかのものもひとつもないし、なにもないから、つまりそいつは何物でもない。生まれもせずにこの世にやってきて、そこに住みつきながらも生きているわけでなし、死ぬのを願うわけでなし、喜びや、苦労や、落ち着きの震源地となっている。…………おれがはじめてというわけじゃない、おれがはじめてではなかろう、あの声はおれを征服するだろう、ほかにもおおぜい征服されたんだ、…………まだおれの番じゃない、だれかほかのやつの番だ、だからおれは動けないんだ、だからおれは自分の肉体を感じないんだ、おれはまだじゅうぶんに苦しんでいない、まだおれの番じゃない、苦しみ方が足りないんだ、…………おれの理解する番、おれの生きる番、生命のネジを巻く番じゃないんだから、声はそれを生きると称する、…………もし扉が開いたら、そうしたらそれはおれなんだ、沈黙が来るんだ、その場ですぐに、わからん、絶対にわかるはずがあるもんか、沈黙のなかにいてはわからないよ、続けなくちゃいけない、……


人の名が翻訳不可能であることは、言語構造からの超越になりうると思う。(「いちどある言語を受け入れてしまうとその言語に囚われる。」)たとえばりんごをappleと翻訳するときは同じひとつの事象をさしていて、その赤くてみずみずしい塊が背負う一切の構造を、その参照作業だけで共有することができる。ただそれは逆にその下位構造に囚われつづけるということでもあって、所与の構造同士を参照しあうための関数を必ず経由してしまう限りは、(ここでふと、ラカンのシェーマを思い出した、)実在を根拠づけるような主体には決して辿りつくことができない。延々と写像変換を繰り返すのに終始する。ところが人の名は違う。「葉子」と言ったって「leaf-girl」と訳したりはしないし、名付けの由来である「詩篇」まで遡って同じ命名意図を持つように訳すのも現実的じゃない。他のことばは翻訳するのに必ず関数を経由するけど、人の名は完全なるトートロジーで済む。言語構造に翻弄される必要がなく、格段の強度でひとつの事象を形づくる。
ベケットは初期の3部作で、molloy-moran-malone-unnamable、という具合に名を喪失してしまうのに寄り添うようにして、区切られたひとつの生を融かしてしまった。名という超越を解体してしまったら、言語の海へと生はふたたび散逸していくしかない。「名づけえぬもの」においては、それの生の区切りがあまりにも曖昧で、一人称の語りで書かれた文はそういうわけで、始まりも終わりもない。
「だってどこから読んだって同じでしょ?」と言いながら、わたしが読みさしのページに挟んだしおり紐を引き抜こうした人は、あまりにも的確すぎた。(でも抵抗しましたけどね。)