フランツ・カフカ「断食芸人 四つの物語」



雑賀恵子さんのことが個人的に気になってます。空腹と食に関する本を読もうとしてて、その下準備みたいなノリで読んだんだけど。あまりにもカフカが凄まじく、むかし読んだのとは全く違う仕方でわたしは打ちのめされた。
「断食芸人」はカフカ最晩年の短篇です。断食を芸とする男が、流行が過ぎ去って誰も見向きしなくなってもなお断食を続け、最後には餓死するという話。彼は、自分が本当に一切のものを食べていないことを人に見せたくて、また興行上の理由で40日間に断食芸が限定されていることを倦む。流行が過ぎ去りついにはやれるだけ断食をしてもいいという許しを得て彼は、動物の小屋のすぐ脇の檻で断食を続け、しまいには死して藁屑と共に片付けられてしまう。生を失う直前、漸く彼の断食に気付いたサーカスの監督に彼はこう言った、「わたしは、断食しないではおれないんだから。ほかにしようがないんだ……だって、わたしは、自分の口にあった食物が、見つからなかったんだ。見つけていたら、いいかね、世間を騒がせることもなく、あんたやみんなとおなじに、腹いっぱい食べていたろうよ。」ここにいるのはバートルビーなんだろうか?でも彼がおこなったのは可能性への無限の後退であったけれど、断食芸人はそれとは逆方向へと向かっている。断食というただひとつの生へと過剰に賭けていくようで、それはむしろ他のすべての可能性を捨て去ることに見える。でも、「自分の口にあう食物が見つからない」というのは、「I would prefer not to eat.」というささやかさ、好むのでも好まないのでもない、しないほうがありがたいという消極的な拒否の次元に不思議と似ている。「しないほうがありがたいこと」が、バートルビーの場合は「労働=資本としての人間」であるのに対し、断食芸人の場合は「食=存在としての人間」である限りにおいて、異常な方向への集約が起きているようで、……わからない考えられない助けて。


この短篇、軽やかに読むなら「過労死への教訓」というので通過してしまっても構わないんだろう。でももうそんな読み方できなくなっちゃったな。というより、そんな読み方をしないためにも、ドゥルーズで少し思考を補強してから、新しくカフカを読んでみよう。(ヨーゼフ・K的な生については、アガンベンばかりでなくドゥルーズも語っているらしい?)



※実際に読んだのは、吉田仙太郎/訳、高科書店