ケルテース・イムレ「運命ではなく」

Imre Kertesz「Sorstalansag」


ただ与えられた状況があるだけだし、その中にさらに新たな状況があるだけだ、……僕も与えられた僕の運命を最後まで生きた。僕の運命じゃなかったけれど、僕は最後まで生きたのだ。……もしすべてが運命でしかないなら、自由などありえない、その逆に、もし自由というものがあるなら、運命はないのだ、ということを。


14歳のユダヤ人の少年が、突然に強制収容所に連行されてそこを生き抜いた。彼は自分の身にふりかかる災難や、それに対して起こる感情について、「当然のことだけど、」と是認しながらどうにかやりおおせた。身体も精神も収容所の中ですさんでいくけれど、その運命は一挙に降り掛かるのではなく長い時間をかけて段階を経ていったから、是認することのできる限度の度合いは限りなく底に近付いていき、生と決別してしまうような瞬間にはただ漸近するだけだ。強制収容所を出た後に過去を振り返って記した、という体裁であるのは明らかなのに、子供の一人称と子供の思考がその当時の状況のままで、現在形で淡々と明かされる。まるで体験をもう一度生きなおすかのよう、追体験の儀式をおこなってそれを忘れないでいるために。
強いられた苦しみについて、それを忘れてしまうことによって感情の処理を行うのはよくあることだ。たとえば失敗や挫折についても、自分に責任がある部分だけが記憶にとどめることを奨励されるし、たとえば失恋についても、その恋は忘れて次へ進め、と忠告する人は多い。でも本当にそれは正しいんだろうか?自分にはどうすることもできなかった災難についてだって、自分はその中でなんとか前に進もうとしたし実際それに対して、多くの時間を費やして降り掛かった苦しみを受け入れたのだ。その状況を体験し抜いたということを、そして自分を決定的に変えてしまったはずの何かを、ただ忘れ去るだけなのは非常に名残惜しい。思い出すのが条件反射的に拒まれるような、禁忌であるような記憶はたしかにいくつかある。それらが保管庫から帯出される日はいつか来るだろうか。