宮本常一「日本人の住まい」



たしか筑摩書房のPR誌上だったと思うが、作家の桜庭一樹とちくま書房の編集者とが、新しく編纂された「ちくま日本文学」の作家選定について四方山話をしていた。(桜庭一樹があまりにブッキッシュなのに驚いた。)民俗学からいま選ぶんなら柳田國男折口信夫宮本常一になるんですねー、などと。
宮本常一は日本全国の民家とそこに住む人々の暮らしを、膨大なフィールドワークに基づいて研究した人だ。民家は絶えず時代の変化をこうむるしそれを目の当たりにしていたからか、彼は「昔は良かった、それを保存しなければ」という考え方をしない。生活の利便性や技術の進歩に根差した変化に対して、彼はとても優しい視線を向ける。
この本には民家の写真や図面が多く掲載されている。当時の日本人がどのような氏神の思想を持っていたか、どの程度の建築設備で生活を支えていたか、コミュニティの在り方はどのようであったのか。日頃から建築設計に従事して、住み手の生活を想定しながら図面をひいているからなおのこと、復元図面から民衆の姿が立ちのぼる。なおかつ、現在建てられている住宅建築の平面計画の根源を見出せるのも面白い。
宮本はさぞや膨大な調査を行ったのだろう、理詰めで論じてるような内容ではないのに、直感があんまりに冴えてるので思わずうなってしまった。という訳で以下はメモ。建築畑の人だけ驚愕してください。。。


・北の寒い方には土間住まいが多く、南の暖かい方には床住まいが多かった。必ずしも身分の低いものが土間住まいだった訳ではない。例えば、東大寺三月堂では土間の上に須弥壇を置いて仏像をまつっているが、鎌倉時代に備え付けられた、一般の人が拝む場所は土間から一段上がった床になっている。…仏を眺めおろすのか…。
・民家は、近畿以西はムギワラ葺が多く、東はカヤ葺が多かった。屋根葺き職人の多く住む集落が各地に散在していて、そこから出稼ぎするケースがよく見られたため、葺き形状が村同士で似かよっている。広島から宮崎への出稼ぎの例もある。遠!
・おそらく昔の家には戸や障子はなくて、入口にはすだれを下げていた。それが、柱や壁のある家がつくられるようになって、すだれの代わりにシトミ戸(はねあげ戸)が工夫せられた。11世紀の終わりになると引き戸が発明され、鎌倉時代には民家にも盛んに用いられるようになった。ただ不思議なことに、シトミ戸は、農家ではほとんど引き戸にかわってしまったのに、町家や漁家では多く残っている。いっぽう、大陸伝来の文化たる仏教の寺院では多くは扉式であり、それに追随する形で神社でも扉は多い。(注:シトミ戸もかなり多いです。)だが、扉は民家にはなぜか普及しなかった。?なぜ?
・日本人には古くから座る習慣があり、7世紀頃に腰掛ける習慣が中国から伝わってきたにもかかわらず、なぜか一般にはあまり普及しなかった。現在でも、住居に畳間をとりいれることは主流だ。ただ、畳は比較的新しい形式である。江戸期までは一般の民衆が畳を用いることは許されておらず、普段は積み上げておいて祭りなどの時にだけ一時的に敷く程度だった。
・一般の農家には玄関は無く、縁側から出入りしていた。暖かい地域であるのに縁側のない民家が存在している、それは、領主が窓にまで税金をかけたため小さい窓しか作れず、それでは縁側がとりにくかったからだ。
・江戸期の農家は非常に大きい。農作業をする家族、親族、下男下女がみなで暮らしていたこと、脱穀等の設備を家の中にそなえつけていたことが理由。婚姻などを格の同じ家同士で行い、互いに農作業の助け合いをしていた(ユイ「結」)。
・古くから民家には寝室があり、壁できちんと区切られていた。当主夫婦はものをしまっておく部屋「納戸」に「万年床」を敷いて寝ていた。夫婦生活は古くから神聖なものと考えられており、ナンドには祖先神がまつられていた。ところが、子を産むことは尊いことであるのに、子を産むときに出る血や、月経時の経血はケガレとみなされていたために、女はその時期はナンドからしめだされた(平安以降)。主な出産場所は土間だった。しかし、江戸初期に社寺諸法度によりいっさいの国民が仏教徒とされ、祖先神は仏として仏壇にまつられてナンドの外に出たために、ナンドの聖域性が逆転した。
・古代は炊事と明かりと暖房がひとつの火でおこなわれていたのが、次第に分化してきた。特に囲炉裏について、室町時代にこたつが発明され暖房に特化した。囲炉裏の炭火を灰にいけ、やぐらをかけ布団をおおう形。わたし自身、安曇野の祖父母邸で経験あり。床に切った囲炉裏の中に灰と炭火と(ときどきサツマ芋と)をいけ、鉄網で覆い、その上に座卓と布団をかける形。
・肥料として、大便と小便の売買がおこなわれていた。