ミシェル・フーコー「狂気の歴史」

Michel Foucault「Madness and Civilization


ヨーロッパに於ける中世以降フロイト以前の、狂気と人間社会との関係について論じた大著。フーコー入魂の一冊です!600ページ超の鈍器!各監禁施設の収容人員から当時の医師の所見、治療法に至るまで、史実を綿密に調査して丁寧に分析を重ねていて、論考に圧倒的な説得力がある。新しい思想をなんとか世に認めさせようという気持ち、サイードオリエンタリズム」を読んだときにも感じたあの必死さがここにも存在してて、何だかすごく勇気づけられる。
フーコー後の哲学者たちは逃れるすべもなく彼の影響をこうむっているから、わたしも彼らを通してフーコーを受容してきていて、彼の思想や論理の筋道にはとても親近感をおぼえながら読んでた。でも読み進むにつれ、あまりにも論拠が膨大で、なおかつ彼の到達点はあまりに遠く、彼は近くにいたようだったけれど既に彼方へと去ってしまったような気分におそわれた。時間の背後から差しのべられた手はあたたかかった、でもその指先は目の前を過ぎてなお遠く見えない。
精神分析医の中井久夫が示したアイデアのことを思い出す。精神病院が設置された地域では魔女裁判が行われなかった、彼はたしかそう推察していただろうか?特にてんかん患者のことを中心に据えていただろうか、彼ら狂人の奇妙な振る舞いに対して、魔女(生来)だとみなすか、病(一時的な罹患)だとみなすか、その差異からは如実に、判断をおこなう側の人間社会の性質が透けて見える。社会構造や構成員の精神の違いが。


フーコーの提示する資料によると、狂人の監禁は中世以降、連綿と続けられてきたけれど、その社会的な意義は変化し続けていた。
当初は狂人は、犯罪者や性病持ち、癩病患者らと一緒くたにされ監禁されていた。ただ彼らは社会制度から落伍した人間であるにもかかわらず、たとえば戯曲でトリックスターとして表現されるような、真実を告げる道化の役割、神のことばを代弁する盲であり、神と人間を繋ぐ者でもあった。このような思考は自然と、供物(人身御供)とされた後死ななかった人間に与えられた特権、彼らを殺しても罰せられない、でも二度と供物にすることはまかりならない、生と死の閾に立つ聖性のことを思い起こさせる。
当時の人々が狂人のなかに見出していた性質の根源は、動物性だった。つまり、人間の自然の状態としての狂気性。動物には罪は無いから、狂人は罪に問われない。社会生活を送る人間が精神的に脆く不安定になりうる、それが極まった形態として動物性/自然性を設定することは、狂気はすべての人に見出しうるという思想をもたらし、「生まれながらの狂人」を排除する。ある人が狂気にとらえられたと認定される根拠、狂気が存在しているとして指さすときの狂気の定義は、被監禁者を選別する方法を指すことになる。特に監禁施設が成立した当初は、病人と狂人と犯罪者が同一の施設に収容されたことからもわかるとおり、医学的な見地から選別されたのでは決してない。むしろ監禁者によるきわめて自分勝手な確信からによることが多い。
「実際に監禁は、狂気を抑止したり、社会秩序からそこに居場所の見出せない人物を追放したりすることをそれほど目標とはしていないのであり、その本質は危険を厄介払いすることではない。監禁はもっぱら、狂気が本質においては何であるかを明示するだけであって、それはつまり非存在を明るみに出すことである。……狂人の監禁を決定するための、任意で集団的な判断の諸形式が生れ、それらを医者に求めるのではなく良識人に求めるのである。」
このとき選別形式は道徳観念に基づいており、監禁施設は矯正施設として機能している。道徳観念に基づく狂人認識について興味深いのは、父親が自分の子供を監禁施設に収容して性格を矯正しようとするケースが数多く存在している点だ。そのとき権威主義的な父親は裁判官のようにして振る舞い、家族関係は小さな法廷を内包する。父子関係は、社会秩序と狂人との関係の縮図としてあらわれている。


フロイトに対するありがちな批判、彼は精神異常の原因をなんでもかんでも父子関係や家族関係に求めがちだというのは、狂人を収容する監禁施設がこのような性質であったならば、そうわからない流れでもない。監禁施設の内部には本物の病人もいたから、フロイトや彼以外の臨床の医師はたびたび監禁施設に出入りしていた。彼らは狂人に対しては、医師として振る舞うというよりは、魔術師的な役割を演じることが主になっていたらしい。
「……ピネル流の医学的人間は、病気の客観的な定義やある種の分類本位の診断を出発点にして活動するのではなく、<家族>・<権威>・<処罰>・<愛>などの秘密が閉じ込められているこうした影響力を根拠にして活動しなければならなかったのである。しかも、こうした影響力をふるうことによって、また<父親>と<裁判官>の仮面をつけることによって、医師は自分の医学的能力を使う必要のない近道を突然とりつつ、治療のほとんど魔術的な操り手となり、魔術師のすがたをおびる。」
初期の臨床の精神科医の、対話療法を彷彿とさせる。フロイトは狂人のもつ先鋭化した論理、「この家に住んだ大部分の人々は死んでしまった。したがって、この家に住んだ私は死んでしまっている」という類いの論理をうまく捉え飼いならし、狂気を理性の射程範囲におさめてしまった。もともと狂気はあまりに完全すぎる理性の言語を持つ。狂気をうまく統制する術を身につけて、人々は、論理の暴走をどの程度まで許容できるか定めることによって、欲しいぶんだけの狂気を所有するようになった。


また、犯罪行為における精神異常者の有責性について、フーコーは非常に示唆にとんだ発言をおこなっている。
現在の裁判では、医師による精神鑑定に基づき責任能力があるか否かが判断されるけれど、それとは別の次元で、遺族の発言やマスコミの報道によって、有責か否かの世論が形成されている。(そしてそれによって、バッシングという形で強烈な刑罰を受ける。)裁判においては、罪は狂気そのものにあり、犯罪者その人の精神には罪はない、と見なされるから、裁判の途中で犯罪者が精神異常だと鑑定されれば、彼は刑罰の軽減という恩恵を受ける。まさに狂気のおかげで。ただし、犯罪行為そのものの凶悪さが薄れるわけではないので、犯罪行為をこうむった立場としては正当に求めたいところの罰が、実際に犯罪者その人が受ける罰とあまりに釣り合わない。本当なら犯罪者には、狂気にあるうちはしかるべき療養を病人として病院で受けさせ、狂気からさめているうちはしかるべき罰を囚人として牢獄で受けさせたい。でも、狂気と個人の精神とが非連続だと見なされてしまったならば、それは不可能なのだ。
でも本当に、ただひとつの犯罪行為についてしか現れないような病気なんてありうるんだろうか?ある人がいきなり他人に身体を乗っ取られたようになりその間にすべての罪を犯してしまうなどということはありうるんだろうか?結局は、狂気と個人の精神との連続/非連続ですらも、社会秩序による判断に委ねられているだけじゃないか?
精神異常が確定した犯罪者=狂気と個人の精神とが明確に切り離された人に関する報道を見ていると、社会秩序のさまざまな意志を感じさせられる。例えば、犯罪者個人のバックグラウンドについて執拗に報道されることがある。そのバックグラウンドは罪には連続していないのだ、と医師によって鑑定されたにも関わらず、報道は、狂気と個人の精神とをなんとかして連続させたいという意志を持っている。それは彼が有罪であることを望んでいるからだ。彼は犯罪行為においてもそれ以外においても、同一でなければ罪に問われないから、なんとかして同一性を証拠立てたい。また逆に、犯罪者個人のバックグラウンドについてではなく、彼をおそった社会的な問題ばかりを報道者が取り扱うこともある。そのとき報道は、彼の狂気を社会秩序に連続させたがっている。彼の精神が無罪であることを望み、犯罪者当人には還元されえない地点に罪を置き去りにしようと躍起になる。
こうして狂人の地位は、いまやすっかり弁証法の罠にかかってゆらいでいて、その不安定さはひどく薄気味悪く落ち着かない。