ジル・ドゥルーズ「批評と臨床」

Gilles Deleuze「Essays Critical and Clinical」


ドゥルーズバートルビー論書いてるよー、ってアガンベンが言ってたので読んでみたんですが。畜生わたしはドゥルーズなんて断じて好きじゃないんだぜ、今読んでるフーコーが大著すぎなのであくまで彼はサブとして片手間に読むだけなんだから!…とかいう態度は何だかツンデレっぽいですよね。


精神医学とかあるいは一般的には演繹的手法とか、病理や突出した異端さから普遍を見いだすという手法にはかなり親しみを感じていたんだけど、でもそこには限界があるだろうということはどうしようもなく了解してた。だから、ドゥルーズがここで文学の実践を論じるにあたり「文学とは一つの健康の企てである」と表明したのは、勇敢な行為であるとして拍手を浴びせたいくらいだ。彼のなかには、疾患が少ない状態をして健康と定義するような、ちょっと健全とは言い難いあの地平を感じない。この世界と人の生は数多くの症候に満ちあふれていて、それをもたらす病にはもちろん作家も罹患してしまう。ただ彼が保有しているのは「小さな健康」であり、「大きな健康」を持てる者がついには享受しえないような病を被ることができる。彼は病をえて、自分の身体を傷つけながら、ただし自らを治癒する医者となり、どのような健康が生にとって必要なのか、実践を繰り返しているのだ。


バートルビーは法律事務所に筆写人として雇われ、筆写の仕事を淡々ととりおこなっていた。ただ、ちょっとした雑用、例えば文書の読み合わせやおつかいを、「I would prefer not to.」という決まり文句ではねのけつづけた。彼の雇用主は彼がどうして断るのかがまったく理解できず怒り叱る。その無理解へと立ち向かったことの副産物として、バートルビーはまさに筆写の仕事をしたいのに違いない、という状況が生まれてしまった。彼はその状況への否定として、それまでとりおこなっていた筆写の仕事すら止めてしまう。彼は、雑用をしたくなかったから拒否した訳ではなかったのに、彼は、したくないこと、したいこと、しなければならないこと、していたこと、これらすべてを閉ざさざるをえず、ものごとが実践される前の、まだあらゆる可能性が混淆している状態まで還元してしまう。何かを望むよりもむしろ何も無しですませたいのですが。意志が後退して空白は広がるばかり、そこでは「I would prefer not to.」という決まり文句によって、言語活動そのものが凍結してしまう。


デカルトのコギトについても、ドゥルーズは興味深い考え方をする。「わたしは思考する、ゆえにわたしは存在する」を「わたしは散歩している、ゆえにわたしは散歩道である」と言いかえて批判したのは誰だっただろうか?思考するわたしと存在するわたしは全くの別物である、だから思考は存在することの根拠にはならない、というのが知っている中では最も有効そうな批判の筋書きだった。ただ、「どうしても思考だけは最後まで残ってしまうじゃないか、これだけはわたしと切り離して考えることはできないはずだ」というのにも一定の真実はあるように思えて、ドゥルーズはそれを時間のなかで救済している。彼は、「わたしは思考する」は瞬間的な規定行為であるととらえ、その行為は一つの無規定な実存「わたしは存在する」を伴うと言い切る。ただしそれは、時間という形式の中でのみ起こり、各瞬間ごとにわたしは絶えず変化をこうむってしまう。時間なしではその二つは随伴できなくて、ただしたとえ随伴したとしてもそれは相異なるもの同士でしかない。
存在論で時間を持ち出すということはハイデガー使ってるんだろうけど、残念ながらこの先が浅学につきわからない。ただ、やはりドゥルーズの時間はきちんと流れているなと思う。通時性の糸がシュルシュルと延長されていって、他の思想家たちが踏み荒らしてしまった土地を分筆し、ここは不毛ではない、と宣言しているかのようだ。


「法はわれわれに何を為すべきかを告げているのではない。そうではなく、われわれの行為が何であれ、どのような主観的規則に従わねばならないかを告げているのである。(為すべし!)」この考えもおもしろい。法は道徳でも倫理でもなく命令であり、善の模倣だという考えだ。まあ倫理的には問題ないけど違法だからやっちゃだめなことなんてたくさんあるから、当然といえば当然なんだけど。
ただこの言説をキリスト教の歴史に投下するとおもしろいことが起きてくる。そもそもキリストは(あるいは福音書におけるキリストは)何を為すべきかを人々に教えていた。愛しなさい、赦しなさい、は決して命令ではなかった。でも彼の教えがキリスト教という巨大な宗教集団として動きだすと、そこで彼はメシアとして無理矢理復活せられ、彼を中心とした集団は集団としての自我を持つようになり、彼は彼らが望むとおりの役割を果たさなければならなくなった。人を裁いて審判をくだす、そこでは既に彼の教えは法として執行されている。


スピノザ「エチカ」にこと寄せて、記号に内在している能動性について話しているのもおもしろい。現代思想11月号の「<数>の思考」特集の中で、田崎英明ドゥルーズラカンにおける記号の取り扱いについて論じているけれど、それの源泉のひとつだろう。「記号はつねに効果であるにもかかわらず、われわれは、効果を一つの目的と見なすか、あるいは効果という観念を原因と見なしてしまう。」酸素が有機物を燃焼させるのに有益であるのはただの効果にすぎないのに、わたしたちはあたかもその性質を酸素の属性だとみなしてしまうし、そういう働きをするものとして酸素の存在理由を仮定してしまう。数がある数式で表現されるのはただの効果にすぎないのに、それを数の本来的な性質だとみなしてしまうし、それが何かを説明しているはずだと思い込んでしまう。
ラカンを踏襲するだけなら、象徴操作そのものの本質性を豪語して終わるんだけど、ドゥルーズは象徴操作に伴う選択制とか任意性を人間の側に残してくれてるように見える。「いったいどうやってわれわれは一つのコンセプト(記号にはなにものも負うていない)を形成することに成功するのか、あるいはいったいどうやってわれわれはさまざまな効果=結果から原因へと遡るのか、と人が問うとき、少なくともある種の記号がわれわれにとって跳躍台として役立つのでなければならず、またある種の情動がわれわれに必然的な跳躍を与えるのでなければならない。」暴力的な中断や極端な縮約があちこちでおこなわれ、ただし最終的にはなぜか論理的におさまる、その跳躍がどのようにして行われたのかは問うことができない。ドゥルーズは跳躍の名手としてエヴァリスト・ガロアを挙げている。結局はガロアなんだ。前述の現代思想には2人の友人が寄稿しているのだが、彼らが現代数学の転換点として挙げるのもやはりガロアなんだよね。