マリー・ンディアイ「みんな友だち」

Marie NDiaye「Tous mes amis」


ある一般的な感情、社会現象的に蔓延するような意識、それはほとんど症候と名付けてもいいと思うけれど、それに対して治療を施すような形で供給される物語があると思う。
「泣ける物語」は、需要と供給との間にとてもいい関係がとりむすばれている。供給する側は、ある程度の技術を持つ制作者にとってはそう難しくもないだろう、「泣く」という感情の製造をおこない販売する。需要する側は、たとえば映画であればたかだか1800円のはした金で、効率よくカタルシスを購入することができる。そして「泣く」という動作は、感動を示す指標としては最も見分けやすいものであるために、抜群の宣伝効果を持つ。
「シンデレラストーリー」も形をすこしづつ変えながら、次々に新手が市場を席巻する。自分の未知の魅力や才能に、ある権威づけられた人は気がついている、という安心感の備給。「やればできる」信仰に頼り過ぎて敗北した、実行力の欠如によって社会淘汰の憂き目に会った人たちにとって、大人向けに味付けられた、王子様による救済の物語は、ずいぶんと心休まるに違いない。
シンデレラストーリーと言っても別に女性たちの専有物ってわけじゃない。自分ではもうどうすることもできない、自分の今の窮状を救ってくれる人物を待ち望む気持ちは性別関係ない。そして彼らは必ず弱い、社会的にも精神的にも。そういう人たちの財産を浸食するようにして、あるいは精神を癒すようにして、ある特定の症候に対して処方される物語もあるけれど、マリー・ンディアイの放つ物語はむしろその傷口を広げて患部をえぐり出す。


短篇「少年たち」は、自分自身が売られていく、売りものとしての価値を見いだされることを切望する少年ルネの物語だ。ルネが出入りするムール家の次男アントニーは、美しく賢い彼は、彼らの家に現れた女に売られていく。いっぽうでルネは、狭く汚い小屋で数多くの妹たち弟たちと雑魚寝、父親は誰なのかわからないし誰も彼をひきとってはくれぬ、「だれの目に留まることもない若さとは、もっとも悲惨で孤独な老いの姿に等しくはないだろうか。」
ムール家はアントニーの代金で最新のコンピューター・セットを設置した。そこにアントニーの美しい裸像が映し出される。売りとばされることに対するルネの羨望は度を超えて強くなる。「ぼくが買われますように、買われますように、買われますように」彼は祈る、かなえられた暁には必ず……「選びはしません、いちばん最初にぼくを欲しいといった人についていきます」
わたしたち読者は自分が売られてしまうということは憧れとは程遠いものであるとわかっていて、でも他人によって救済されることを待つより他に道がないし、それが第一にして唯一の目標になってしまうような絶望感も感じとれる。だからこそルネの願いは身を切るような切実さを持つ。しかしンディアイは、そんなルネの願いを、少年らしい浅はかさを持つ切望を、やすやすと裏切ってしまう。ルネはとうとう売られていくが、それは恐怖とともにであり、自ら売りものになることを選んだことへの後悔、でもこうするしかなかったんだという諦め、そして買い手との将来に対する怯えを伴うものだった。


これは短篇集で収録は「少年たち」「クロード・フランソワの死」「みんな友だち」「ブリュラールの一日」「見出されたもの」の5篇。物語への導入のしかたがかなり独特。登場人物の会話や日常風景の描写が唐突にはじまって、それら断片から、彼らがいま直面している状況を読者に類推させるような形が多い。翻訳者も後書きで述べているけれど、フラナリー・オコナーに似ている。ありふれた光景にあって登場人物はどこかいびつで醜く、それらに対する作者の視線はつねに冷酷で乾いている。
ンディアイは2006年初版のこの短篇集で初の邦訳刊行となったようだが、その際トヨザキ社長(豊崎由美さん)のお墨付きがついたんだそうだ。なんだかんだでちゃんと出版文化に貢献してるなあ彼女は。こないだ書店行ったら店頭に彼女の新刊の書評本がどさっと平積みされてあったので、同行の友人に推薦すべく試し読みに適切なページを探してて。まあ社長の書評なら宮本輝渡辺淳一あたりがおおいにはじけてくれてるだろう、ということで渡辺淳一愛の流刑地」の書評を(いま思えば無謀にも)友人といっしょに読み始めたんだが、さすがに失策だった。ワカメ酒って何だ?と思わずつぶやく私の隣で、女性にこんな本薦められるなんて!と超うろたえる友人。むー社長を甘く見てはいけませんね。