サミュエル・ベケット「マロウンは死ぬ」

Samuel Beckett「Malone Dies」


「とうとうもうじきわたしは完全に死ぬだろう、結局のところ。」


ある男が個室のベッドに伏している。身体が不具でわずかに手しか動かない。彼は自分がどうしてここにいるのかが定かではない。なにか乗り物で運ばれてきたような気がする、よく考えてみれば森の中にいたのかもしれない。ずっと歩いていたことはたしかだ。もうずいぶん前からここにいる。個室の外には人がいるらしく時折物音がきこえる。老婆だろうか、誰かの手によってスープがテーブルの上に差し入れられ、また2つある溲瓶の壺はいっぱいになるごとに交換される。彼はそれを、先端に鈎のついた杖で引き寄せてなんとかやりすごしている。彼は自分の死に際して、三つのことを、練習帳に鉛筆で書き留めることにした。「現在の状況、物語三つ、財産目録」。まずは現在の状況、個室について、時間の経過について、そして記憶のある限りのこと、熱くもなく冷たくもないなまぬるい死を迎えるだろうこと、単に不活性になるだけのような。そして次にサポスカット(マックマン)という男の物語。


「彼の心に、罰の観念が浮かんできた、もともと彼の心はこの怪物めいた考えにとりつかれていたのだが、おそらくいまのからだの姿勢と苦しげに握り締めたその指によって刺激されたのであろう。自分の罪がなんであるかははっきりとはわからぬままに、彼は身にしみて感じていた、生きるというだけではその十分な償いにはならない、というよりこの償い方自体が罪であって、そのためにさらに償いを要求することになり、それがまた償いを、といったぐあいに果てしなく続いてゆくのだ、これではまるで、生きているものにとって、生きること以外にまだなにかやれることがあると言わんばかりではないか、と。そして、自分は母のなかに生きることに同意し、次いで彼女から出ることに同意してしまったのだという、近来とみに断腸の思いを誘わずにはいないこの思い出さえなければ、彼はきっと、罪など犯していなくても罰せられるには十分なのではないかと考えたことだろう。それに、同意の件だって彼はほんとうの罪だったとは思えなかった、むしろあれ自体がもうひとつの償いだったのであって、ただそれが失敗に終わり、彼の罪を清めてくれるどころか、かえって前よりもいっそう罪のなかへ彼を深入りさせたというだけなのだと、彼は思った。………彼の感じでは、時間の終わる果てまでこの生身を引きずって這い回りのたうち回っても、まだけりはつくまいという気がするのだった。そこまでつきつめないとしても、これだけたっぷり待った男なら、永遠に待つだろう。そしてやがてこういうときがやってくる、もう何も起こらない、もう誰も来ない、そしてすべてが終わって、ただむなしいとわかっていながらも待つということだけが残る、そういう瞬間が。」


眠ってしまった、なんてたいくつなんだ、続けるんだ。そう悪態をつきその悪態をも練習帳に書き留めながら物語を語りつづける、そして折に触れて自分の持ち物の総点検をし財産目録の作成をする。半長靴の片方、亜鉛メッキの指輪、パイプの雁首、黄ばんだ古新聞紙の小さな包み、そして練習帳一冊、鉛筆やがては鉛筆の芯。財産目録を作成するということは、自分の存在の痕跡を整理して索引を付すことであって、それは総括の作業でもある。故人の遺品を整理することに似ていて、通常ならその整理過程は、故人に対して正しい喪の作業を行うひとつの段階であるけれど、彼はそれを自分で執り行わざるをえない。
彼は何者かの手によって生かされていてそれはほとんど自明の存在となり存在根拠を疑う余地もないことのようにみえたけれど、その手が現れなくなったことが唐突に練習帳に記される。何日か前からスープの差し入れが無くなったがもう言っただろうか?溲瓶の壺の交換もない。気分は最高であるがおそらく譫妄状態というやつだろう。何者かによって生かされている、しかもおそらくは小汚い老婆、おめおめと生きながらえていたに過ぎず、そして何の理由も示されずにいきなり生命線を断ち切られ、ただ朽ちゆくしかなくなった彼、彼はそう、マロウンと呼ばれている。Molloy-Moran-Malone、不具者の強烈な自意識の連鎖として、モロイらしき過去を持つ男がここに出現している、身体を絶え間なく腐らせながら。
消しゴムを拝借できないでしょうか?彼は練習帳を文字で埋め尽くしてしまうのを恐れ、鉛筆を使い切ってしまうのを恐れ、それはあたかも書けなくなることが死を意味するかのようだ。彼は果たしてそのようにして「書けなくなること」によって手記を閉じ生の記録を閉じるのか。それとも、ふいに断筆され「書かなくなること」によって彼の死が指し示されるのか。自意識を自らの手によって閉ざすことによって終わるのか、身体が手が動かなくなることによって終わるのか、どちらかで彼の死が語られるのだろうけれど、結果は皮肉にも後者だった。


「ばかげた光のかずかずを、星や、かがり火や、浮標や、陸地の灯火や、丘でははりえにしだを焼いているかすかな火影や。マックマン、わたしの最後の、わたしの持ち物、忘れてはいない、彼もそこにいる、おそらく彼は眠っている。レミュエルは
レミュエルは責任者だ、彼は血の痕をけっして乾くことはない斧を振り上げる、しかし人を打つためではない、彼はだれをも打たないだろう、彼はもうだれをも打たないだろう、彼はもうだれにもさわらないだろう、斧でも、あるいはそれでもあるいはそれでもあるいはあるいは
あるいは斧でもあるいはハンマーでもあるいは杖でもあるいは拳でもあるいは心のなかでもあるいは夢のなかでもつまりけっしてかれはけっして
あるいは鉛筆でもあるいは杖でもあるいは
あるいはひかりひかりつまり
けっしてそこだかれはけっして
けっしてなにものも
そこだ
もう」