ジョルジョ・アガンベン「スタンツェー西洋文化における言葉とイメージ」

Giorgio Agamben「Stanzas: Word and Phantasm in Western Culture」


スタンツァは、あらゆる(詩の)技法を収容するに足る小部屋もしくは容器を意味する。(ダンテ「俗語詩論」)


インスピレーションを受けて詩作をすることと、ロジカルに批評を構築していくこと、この二つの反目は古くプラトンによって指摘されていた。美的で霊感的な詩のことばは、それが天啓によるものだとされるがために、それを享受した詩人によってでさえ所有し我がものとすることはできない。一方で、合理的で意識的な思惟のことばは、哲学者みずからが紡ぎだしているのだからそもそも所有はしているけれど、それを親しむ対象として享受することができない。詩と思惟のことばは不幸にも遥か昔からものわかれの状態が続いているけれど、例えそれらが決して同化しえないものであったとしても、お互いに対して漸進すること、その衝突する最前線に出現する空間を意識することが現代においては大切なんだとアガンベンは言う。芸術家たちが創造性を唾棄すべきものと捉え批評性をもつ作品をつくりはじめてから、もう長い年月が流れた。そろそろ批評の側も彼らに近づかなくてはならない。


第一章は、中世神学の怠惰とフロイトのメランコリーに関する論議
中世の教会世界において怠惰は「白昼のダイモン」と呼ばれ修道士たちが陥りやすい罠として捉えられていた。(現代においては怠惰は、働かないでだらだらすること、労働の資本主義的な倫理に反する罪として捉えられやすいけれど、そういう側面ではない。)彼らにとっては怠惰は、神が出現するかもしれないことからの後退り、神聖なるものが現前する可能性を前に身を引くことを指していて、それは人間の本質に根差した、かなり根本的な苦悩のことだった。実際には失われていない、あるいは存在しないかもしれない福音からの後退。神の現前は達成されないだろう、でもそれをあきらめきれない、それへの道を欲すると同時に遮断してしまうような両義的な、倒錯した心理状態だ。
アガンベンは、この怠惰と、フロイトのメランコリーという概念の、葛藤状態の類似に着目する。
メランコリーとは、失った対象を自らのうちに理想状態として復活させ保存しておくこと。その対象を失ったのは自分のせいである、という罪悪感と自分自身への怒りをとおして、対象そのものは理想状態に置こうとする心理状態のこと(あってる?)。メランコリーの大きな特徴は、失った対象が明確ではない、喪失した対象がほんとうにあるかどうかも疑わしいということだ。ここで、「詩のことばは享受できるが所有できない」との類推をおこなうなら、所有できない対象を喪失した対象として想像する、理想状態として復活させ保存する能力がメランコリーにはある。そしてメランコリーに陥った者たちが想像するものは、美しい詩作として結実する。古代以来さまざまな芸術家たちがメランコリーを患っていたと文献は語っているけれど、それは芸術分野におけるメランコリーの働きの具体的な根拠になるだろう。
怠惰もメランコリーも、自分が追い求めている対象を失いたくない、欲望の対象を喪失することをおそれて、その対象が不在であるのになんとかそれにしがみつこうと絶望的にもがき苦しむ。そして苦しめば苦しむほど、その対象は近づきがたいものになる。修道士たちが追い求める福音も、芸術家たちが表象像(ファンタスマ)として描く元の対象も、ほとんど不可侵な領域にとどまっている。古代・中世は絵画や彫刻芸術のほとんどが神話世界を題材にとられたものであったから、なおのことその二つは一致して彼らのほうからは近づけない。ただしかし、欲望の対象は決して満たされることはなく、所有することも到達することも不可能であるからこそ、修道士たちは祈り続け、詩人たちは歌い続ける。
こうして俯瞰すると、現代における宗教の意義にも考えが及ぶ。十分すぎるほど科学教育を施されたわたしたちは、中世修道士に劣らず、宗教空間において到達すべき対象は絶望的なまでに見当たらない。祈りを捧げ続けることによってなんとか対象を理想的な状態のまま捏造しようとするんだけれど、結局はその祈りの儀式をとりおこなうことそのものが、宗教の中心意義であり、ラカンジジェク的な意味合いにおいても、それのみで立派な宗教者なのだ。フロイトが自分は無宗教者だと言い切ったとき、彼はこのメランコリーの構造を看破し、宗教的象徴界の外側に出てしまった。さてわたしはどうなのか?今年もまた関口教会のミサには参加していることだろう、教会空間の中にあってでさえ、クリスマスの時期だけは、不信心者ぶることが許容されている。賛美歌と祈りの残響の中にたゆたう、あの巨大なメランコリーの横溢を他者的なものとして受け止められていることに、自分がまだ無宗教者であることを確認して安心しながらも、コソコソと司祭の祝福を受けにいくんだろう。我ながらみみっちいな。


第二章はフェティシズムについて。
男児が自分の母親にペニスが無いのを知って去勢不安に陥る、その不在のペニスの代理としてフェティシズムが現れる、というのがフロイト的な発想である(女児のケースはもう少し屈折している)。フェティッシュに、不在を否定するという情動がつきまとう以上は、どんなにかそれを受肉させて不在を打ち消そうと努力しても、満たされることは決してない。女性の履いたハイヒールを集めても集めてもひたすら集めまくっても、不在の原点は不在のままでしかなく、収集には際限がない。
彼が不在を否定しようとしてある対象にそれを受肉させたとき、その対象について彼は使用価値を超える何かを見いだしている。適切な使用法を与えていた規準をやすやすと乗り越え、有用さという価値観にとらわれずに。その対象には彼の怨念が降り掛かって、呪物的な性格を帯びる。象徴的な記号を付されて、まるで彼の個人的な宗教の、祭祀用の装具一式として機能しているようだ。彼の個人宗教で祀られているのは不在のオベリスクであって、その不在をどうにかしようという欲望が彼を席巻する。
ところでアガンベンはここで、マルクスの言う物神性との強い類似をフェティッシュに見いだしている。ただ思うに、マルクスの物神性が、商品の流通過程で交換価値が使用価値を凌駕するその差異を指していたのに対し、フェティッシュは交換価値すら尺度として使用することはできない。大人が彼のケチなコレクションを捨てられて激怒するように、子供が彼の使い古した玩具を捨てられて泣き出すように、捨てた当人には、フェティッシュを抱える人以外には、その価値をはかることはできない。


ところで第四章でも、フェティッシュに紙幅をさいて論じている箇所がある。フェティシストたちは、彼らの怨念、不在に対する欲望や恐怖を、ある対象に向けて象徴的に刻印として施すことによって、それらと交流することができるが、しかしその最中に怨念が意識にのぼってくることはない。無意識下に抑圧されたままだ。この形式は、その対象に付された性質が「寓意(アレゴリー)」であると考えると、欲望や恐怖が意識にのぼってこないということが興味深いポイントとして浮かんでくる。つまりアレゴリーは、明快な言語空間に存在する、不気味な無意識の亀裂の狭間に位置しているのだ。
無意識の領野を扱う学問の、精神医学でよく語られる人物としてオイディプスがいる。彼はもちろん、「オイディプス・コンプレックス」の名前の由来であるところの、複雑な家族関係によってその名をはせているんだけれど、スフィンクスの謎をといた人物としても語りつがれている。スフィンクスの出した謎「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足のものは何?」に対して、オイディプスは「人間だ(=自分自身だ)」という明快な答えを与えることによって、スフィンクスを退治し苦しめられていたテーバイの住人たちを救った。一般的にはこの話は、謎めいた表明の裏に隠されていた答えを暴いた勝利、シニフィアンを見事シニフィエに結びつけたこと、記号論的に明快に整理される言語空間の声高な勝利宣言としてとらえられてきた。ところがこのわかりやすい解釈は、ある不気味なものを覆い隠してしまっている。ヘーゲルをして「象徴的なものの象徴」と呼ばしめたスフィンクスが、他ならぬオイディプスに向けて発した謎かけが、本当にただのクイズである訳がない。スフィンクスを退治したのちにオイディプスが見舞われる災難が真の悲劇であったのは、彼が自分自身のことを知らなかった、自分自身の出自について無知だったことに由来する。スフィンクスはその悲劇を予見し、「汝自身を知れ」ということばを寓意化して、「自分自身」が答えであるような謎かけをオイディプスに対して行ったのである(という説もあるが、アガンベンが本書中でとりあげている訳ではないし、この一通りで解釈されねばならない訳でもない)。このとき、スフィンクスの提出した謎は、隠された答えというものを想定しているのではない。謎とその答え、というワンセットからは少しずれた地点に彼女が述べたい事柄がある。このずれ、シニフィアンシニフィエの連結の間の悪魔的なひずみ、不和をよびさますものをアレゴリーと呼ぶ。アレゴリーは、言語の二重性、表現するものとされるものがあるという、この両義性の持つ亀裂を、強く認識させてしまう。何が謎において言語化されているのか、一義的に記号論的にとらえることしかできなかったオイディプスは、象徴的なものの持つ力を過小評価しアレゴリーに気付かず、傲慢であった。そしてその傲慢さの代償は大きかったのである。
ところでアレゴリーというと、神話的な叙事詩のようなものを想像しがちだ。たしかに、人智を超えたものの不気味な存在をかいま見せるのだから、それを無意識ととらえるのでないならば、神ととらえるのは妥当だろう。神話の世界の多くは古代において構築されているけれど、それが人のつくりだすものである以上、アレゴリーを多く含んだ神話はこんにちにおいてもたえず生みだされている。今年もっとも流布した神話は、宮崎駿崖の上のポニョ」だろう。封切り前から子供向け子供向けと盛んに宣伝されていて、もちろん子供たちは無邪気に映画を楽しんだんだろう。だが、彼らと同じく映画館の席についた大人たちは、ストーリーが進行するに従い、特定の意味を見いだすことのできないエピソードと表現を数多く目の当たりにし、ついには不気味さすら感じ始めたはずだ。えっ?ひょっとして今、ポニョもソウスケも死んじゃってないか?(実際ウェブ上では、映画を見終わった人々の手によって、画面上の数々の象徴記号を解読する作業があちこちで行われていた。ポニョとソウスケが黄泉の国へ渡ったという受けとり方は広く共有されていたのである。)そんな大人たちの懐疑をよそに、画面上ではポニョは明るく強く振る舞いつづけ、最後には見事ハッピーエンドを迎えて映画は終了する。そしてきわめつけに、あの悪魔的にかわいらしいポニョの歌が映画館内になりひびき、大喜びでその歌を口ずさむ子供たちと、狐につままれたような顔をした大人たちが明るく照らし出されるのである。
作家の舞城王太郎は、宮崎アニメの持つこうした神話的な性質を自分の作品に使用する。わたしたちの世代には神話がない、日本人だから西洋的な神話世界も手許にないし、日本古来の神話世界も戦後ずいぶんたって無効になった中で生まれてきてしまった。ただ、そんなわたしたちでも、宮崎駿の世界は、神話として信じるに値するはずだ。そうして彼は、ジェイムズ・ジョイスオデュッセイアをモチーフに「ユリシーズ」を創作したように、宮崎アニメをモチーフに「山ん中の獅見朋成雄」を創作した。成雄が森のけわしい山道を駆けぬけるとき、彼はサツキとメイと一緒に、トトロの棲み家へと通じる薮のトンネルをくぐりぬけている。そして果たしてその道は異世界に通じていて、彼はその世界で、湯屋の下男として働くのである。もちろんそれは、神隠しにあった千尋と同じ役割だ。


で、なぜか第三章をすっとばしたんですが、第三章ではアガンベンの思考の展開が凄まじすぎてついていくのがやっとで、余計なこと考える暇が無かったんです。愛する対象は根本的に表象像(ファンタスマ)である、ということとそのヒロイックな性質を、多分野から語り起こしているんですが。わたし、プラトンなどの古い哲学や病理学に明るくないし、ダンテも読んでないしでちょっと降参。彼は本当に、信じられないほどの博覧強記っぷり。図像などの一時資料が豊富だし、参照している文献も古代から中世から現代から多種多様。哲学書も詩集も物語も、科学書医学書占星術も、膨大な資料を縦横無尽にかけめぐり自在に手許にひきよせて、わがもののように論破している。すごいなあ!!!ていうかその感動だけでこんな長文かいちゃうわたしはちょっと興奮しすぎです。