ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ「対話」

Gilles Deleuze & Claire Parnet 「Dialogues」


まあ彼は頭が良すぎるんだよ、でもそこが彼のいいところでしょ、いやそれくらいは大目にみてやってよ。わたしがぶつぶつ不満をこぼしてるのを友人らが口々にとりなそうとするので、放置決定してたはずのドゥルーズと、わりと早くに再会することになりました。ウラゲツ☆ブログによると、公刊されてるドゥルーズの著書はこの10月で翻訳され尽くしたらしい。みんなに愛されすぎです彼。


でもあいかわらずわたしの不満はくすぶったまま。この本の中で彼は随所で精神分析の批判をしていて、それはほとんど言語との関係に於いてであるのに、名前を挙げて批判するのは何故かフロイトっていうのがまず理解しがたい。いや勿論フロイトにも糸巻き車のエピソード等はあるよ?でも、「言語は信じられるためにではなく、従わせるためにつくられているのだ。」とまで言い切るときに、ターゲットとしてはフロイトは遠すぎて、やっぱりラカンとしか思えない。また仮にそうであるとして、欲望の発生についても、それがただのマシンに過ぎないということは、ラカン的な立場からでも十分に言えるんじゃないか?わたしの理解がラカンドゥルーズも大雑把すぎるのかな。ドゥルーズラカン批判が本当に批判の体をなしているのかどうかがわからない。と言うかそもそも、ドゥルーズ=ガタリラカンの「現実界想像界象徴界」を批判するとき、その切り分け方を批判するのではなく、まずは象徴界つぎは想像界を葬って、でも現実界は重視しているように見える。それって批判の形式として正しいのかな?と言うより、その切り分け方を借用する方が、よりひからびた思考を見いだせるということなんだろうか。


ただ今回は2つほどドゥルーズのいいところを発見した。
ひとつめ。精神医学はそもそも、異常なものから演繹して正常なものの成り立ちを探求する、という姿勢が大前提にあって、それは方法論的にはすぐに限界が見える。異常なものを対立項と見るか補集合と見るかは考え方次第だけど、その場所から離れた地点の類推を行うのは、ちょっと無理な跳躍をしていてあぶなっかしいし、その推察の妥当性は「そこそこ」以上のものは得られなさそうだ。それに対してドゥルーズの採用した手法はまさに正攻法でとてもすがすがしい。ドゥルーズは何の構成もない状態から出発して、そこにある事件が起こることによって境界線がひかれていくという考え方をしている。(ん?現象学と親近性あるんだろうか?)例えばこれがアガンベンだと、彼はまずある集合を仮定して、しかる後その境界線付近について思考を重ねている。これはそのまま、境界線を通時態で眺めるか共時態で眺めるかということに対応しているようであるのがまた興味深い。
ふたつめ。自分の文体を獲得するようになるということは、母語で吃ることができるようになることだ、というのがとても正しいと思った。発声する言語と発声しようとしていることばとが同時にわき起こらないという瞬間において、その発声する言語そのものは、新たな表現様式、すなわち文体をことばとは独立して獲得してしまっていて、吃りはその証だと思う。なんか久しぶりに吉増剛造を読みたくなってきた。彼の吃りは天下一品だし!