フェルナンド・ペソア「ペソア詩集」

Fernando Pessoa


ぼくはなにであったのか 自分を見出したとき ・・・・・・・・・・・・・・Fernando Pessoa
ぼくはすでに失われていた
ぼくは苛立ってぼくの許を去った
否定されたことになお固執する
狂人の許を去るごとく


わたしが死んでから 伝記を書くひとがいても ・・・・・・・・・・・・・・Alberto Caeiro
これほど簡単なことはない
ふたつの日付があるだけー生まれた日と死んだ日
ふたつに挟まれた日々や出来事はすべてわたしのものだ
…………
ある日 わたしは子どものようにねむたくなった
わたしは目を閉じてねむった
それだけのことだ わたしは唯一の自然詩人であった


手を離そう つないでいても何の役にも立たないから ・・・・・・・・・・・Ricardo Reis
楽しかろうがなかろうが ぼくらは川のように
過ぎ去るんだ それならば 静かに
心を騒がすことなく 過ぎゆくことを覚えよう


別人とまちがわれたのに 否定しなかったので 自分を見失ったのだ ・・・・Álvaro de Campos
仮面をはずそうとしたときには
もう顔にはりついていた
なんとか仮面をはずして 鏡を見ると
ひどく歳をとっていた
酔っていて ずっと着ていた衣装の着かたがわからなかった
…………
おれは雑草のように存在し 誰にも引き抜かれなかった
…………
生きること、それは他人に属することである。死ぬこと、それは他人に属することである。生きることと死ぬことは同じことである。しかし、生きることが外部から他人に属することであるのに対し、死ぬことは内部から他人に属することである。二つは似通っているが、生は表で死は裏である。だから、生は生であり、死は死なのだ。なぜなら、表は、それが表だとわかった瞬間から、つねに裏より真実であるから。


いま立っているまわりにはたくさんの鏡があるらしい、今までに70以上も見つけてしまった。自分の姿があちこちにうつって見えている。正面にうつっているイメージの名はPessoa、その近くにはCaeiroとReisとCamposという名のもある。そのさらにずっと奥にはごく小さなイメージをうつす鏡があって、それを見ながら話している。そのイメージが笑顔だから、わたしもおかしさを感じて笑顔でいる。ところがふと視線があったときに閃いた、そうして微笑んでいるのはわたしなんだと。その瞬間にわたしはすでにそこに立ってはいなかった、そしてどこに立っていたのかもすっかり忘れてしまっていた。しばらくしてまた別な鏡をのぞきこみ、わたしはふたたび跳んでしまう。何度も何度も、ためらう暇さえないままに、わたしは延々とうつりつづける。視線のとりかわしはつねに一対一にしかならない、あぶれたイメージはとり逃がされて、見慣れない顔の彼ら彼女らが残された。そうした残りのもののうつるただただたくさんの鏡のなかで、わたしはすりきれてしまいそうだ。やがてわたしはめまいがして、ねむくなり静かに目を閉じた。そうしてわたしは消滅した。わたしはとうとう思い出せなかった、わたしはかつてどこかに立っていただろうか。わたしはどれかの鏡にうつった、そのイメージの記憶としてしか残っていない。憑依の儀式をくりかえした、その痕跡だけだ、いまとなっては。


ペソアは20世紀前半のポルトガルの詩人。70名以上の異名者をつくりあげ、彼らそれぞれの個性で詩や散文を発表している。この詩集では、主な異名者であるアルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポス、そして同名者ペソアが収録されている。彼は単に多重人格障害であるという訳ではない、十分に意図してそれを行っていたことが研究者たちによって発見されているそうだ。編訳の澤田直さん(ジャン=リュック・ナンシー「自由の経験」の翻訳者!)が解説で、「読んだ人はペソア・ウィルスに侵される、自分も彼の異名者なのではないかと思ってしまう」と述べているのに敬意を表して、異名者として言葉を継いでみました〜☆