ジョルジョ・アガンベン「瀆神」

Giorgio Agamben「Profanazioni」


帯文にこう書いてある、「仕上げたばかりのこの小さな書物において、わたしは自分にとってたいへん重要な主題について、可能なかぎり明確に述べたのです。」神への冒瀆というこのタイトルと、本のサイズが聖書に似ているのとで、まるでアガンベン信仰告白あるいは懺悔をした、その告白書であるかのような錯覚をおぼえる。もちろんその対象は神ではなく、彼が思考に於いて大切にしている道標なんだけど、それへの私的な愛情で行間は埋め尽くされていて、文章からは気高さや美しさすら感じる。何を書いても野暮なのでここいらで口をつぐんで、一章を抜粋します。




「欲求すること」


欲求することは、最も単純で人間的なことがらである。それではなぜ、わたしたちの欲求をわたしたちは告白できないのだろうか。なぜわたしたちにとって、それらの欲求を言葉に表すことがこれほどむずかしいのだろうか。むずかしすぎて結局わたしたちはそれらを隠し、それらのために、わたしたちのなかのどこかにひとつの地下聖堂を建て、防腐処理をほどこして待機させるのである。


わたしたちがわたしたちの欲求を言語化できないのは、わたしたちがそれらをイメージしていたからである。じっさいにも、地下聖堂はイメージだけを、まだ読むことのできない子供たちのための絵本のように、文字を知らない民のエピナル版画のように、保有している。欲求の身体はイメージである。そして欲求のなかで告白できないものは、それについてわたしたちが抱いているイメージなのである。


自分の欲求をイメージなしに誰かに伝えることは乱暴である。自分のイメージを欲求なしに誰かに伝えることは退屈である(夢や旅を語るように)。しかし、どちらの場合も、それは簡単である。イメージされた欲求と欲求されたイメージを伝えることは最も困難な課題である。だからわたしたちはそれを先送りするのだ。それが永遠に未決のままだろうということを理解し始める瞬間まで。そして、その告白されなかった欲求が永遠に地下聖堂の捕虜であり続けるわたしたち自身だということを理解し始める瞬間まで。


メシアはわたしたちの欲求のためにやって来る。メシアはそれらをかなえるために、イメージからそれらを分ける。あるいは、むしろ、それらがすでにかなえられているのを見せるために。わたしたちがイメージしたものは、わたしたちはすでに得た。残るのはーかなえられることはありえないままにーかなえられたもののイメージである。かなえられた欲求によって、メシアは地獄を作り、かなえられないイメージによって辺獄を作る。そして、イメージされた欲求によって、純粋な言葉によって、天国の至福を作る。