ジャック・ランシエール「民主主義への憎悪」

Jacques Rancière「La haine de la démocratie」


民主主義はその大前提として人間がみな平等であるが(共和主義においては平等は獲得されるべき目標でしかない)、そのことに対しては根本的な憎悪感がつきまとう。私生児や妾腹の子供に対する差別感情はもちろん移民の受け入れ拒否に至るまで、平等であるという前提そのものは本当は受け入れ難いことだ。そもそもデモス、デモクラシーということばは、「公共的存在となる条件を満たしていない人々が公共の事柄に口出しすることを非難する侮蔑的呼称」だった。デモスの分際で権利を持とうなどもってのほか、彼らは自分らと同じ言葉を話す人間ですらない。彼らは何かを騒いでいるがそれは意味を為すものではないし耳を貸す必要すらない。彼らは自分らの象徴体系の明らかに外側に位置しているのだから。とるに足らない者たちに、自分たちが付与されている特権を共有させてなるものか。
ランシエールは言う、まず問うべきなのは、他人が語ることを理解するかどうかではなく、他人の口から発せられる声を理解すべき言葉として了解するかどうかなのだと。


統治という形態が自然を根拠として行われるものとして、プラトンは以下を挙げている。
・子どもに対する両親の権力・年少者に対する年長者の権力・奴隷に対する主人の権力・平民に対する家柄のよい貴族の権力
また、後天的に獲得可能なものとしては以下があり、これが政治家としての資質である。
・弱者に対する強者の権力・無知な者に対する学識ある者の権力
そして最後に彼は、以下を付け加えた。
・偶然の神による選択、くじ引き


わたしたちは議員になりたいという意欲を持つ人を何のためらいも無く議員に推挙するけれど、権力を行使したいと考えている人を権力の座に据えるほど、民主主義にとって危機的な状況はない。でもわたしたちは、とるに足らない者たちに政治をゆだねることは絶対に避けたいから、プラトンが挙げた7番目の道を決してとることはない。今のこの民主制そのものは戦前と何ら変わらず寡頭制でしかない、ただ彼に統治させるその根拠を、自然のものから後天的に発生すると思われるものにすり替えて、平等主義をよそおっているだけだ。そしてその後天性は、今や脆い地盤の上に立つ仮説、ブランク・スレート(人は生まれついたときは、優劣のまるでない空白の石版だということ)に負っているに過ぎない。平等主義をほどほどに、自分が許容できる範囲までに何とか丸め込むためには、その仮説の信憑性を疑ってはならない。


…いま<中の人>に読了の報告したら、ビブリオも読めとか言われましたが…凄く綿密だということしかわかりません…。