ウラジーミル・ナボコフ「ロリータ」



仕事量が警戒水域に達してたのから脱しました…で使いすぎて痺れる頭で合間合間に読んでたのが「ロリータ」、なかなか駆動力のある書物で嬉しい。
ロリコン」の語源として名を馳せててその通り、語り手ハンバートの恋焦がれた相手が少女であったために困難に見舞われるその手記だけど、要はファム・ファタールに翻弄されて失墜する男の話であり、喜劇性や痛烈な皮肉や衒学にあふれた、恋愛ものなんだと思う。
物語は第1部がロリータとの出会いから恋の成就まで、第2部がハンバートの破滅まで。第1部ではまさにロリータに片思い中のハンバートの浮き足立った動作が笑えます。彼女をつい目で追っちゃったり、なんとかさわろうとしてみたり、一緒にいようと付け狙ったりするのは、そのまんま、恋したら誰もがそうなるだろうという行動で、それを彼は必死で抑圧するのだから、あんまりにもコミカルで思わずクスリと笑っちゃう。第2部では恋が成就してて、やはりこれも好きな女を手に入れた男にありがちなことが。彼女を溺愛し何でも言う事を聞いてしまう一方で、バカだと罵ったり媚びや下品な物言いに苛々したり。本当、恋した相手がどんなにか特殊であっても、そのときに起こる感情はけっこう似通うものだ。わたしがハンバートの情動に笑うとき、それは今までのわたしのみっともなさに対してもカラカラと笑ってる。バカなことにうつつをぬかしやがる、そんな自分はいとおしいでしょ?


ナボコフは相当に知性があるというか衒学趣味があって(「透明な対象」でもそうだったし、そもそも彼は鱗翅目学者なのだ)、引用や暗喩やアナグラムが頻出してるけど、この新訳をした若島正さんはそれに相当にくらいついてて拍手もの。「Guilty of killing Quilty」をクィという韻を保存して「クィルティ殺しを悔いている」と訳出したり。物語の冒頭「Lolita, light of my life, fire of my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta…」を煩悶の末、「ナボコフも自分で露語に翻訳したときそうしたから…」と韻を踏まずに普通に訳出したり。…海外文学を継続的に読んでると翻訳者の顔がよく見えるようになってきて、原文に忠実なばかりじゃなく、彼らの作業の跡を楽しむのもいい、と思えるようになった。そもそもナボコフだって、「ロリータ」を母語ではない英語で書き上げたのだ。そしてその後、自分の母語である露語に自ら翻訳した。オリジナルとその写像との間なんて、どっちが主でどっちが従なんてたいして問題にならないのかもしれない。その写像の一群から努めてはぐれないように注意していればいいのだ。