ジル・ドゥルーズ、サミュエル・ベケット「消尽したもの」



ペドロ・コスタという名のポルトガルの映画監督が発表した「コロッサル・ユース」という作品は、とても不思議な画面を持っている。カメラが殆ど動かず、背景は静止画像のままでその中を人物が横切る。しかもその背景ですら、念入りに遠近感を排除させてトリミングされている。例えば、室内空間を映し出すのに出隅を中心に据えて消失点を画面の外に追い出したり、カメラから同じ距離にあるものしか画面の中に写し込まず距離による縮小相似を無くすことによって。それは舞台空間のようであり、絵画空間のようであり、映画という形式が捉えることのできるはずの次元をひとつ削ぎ落としたような、奇妙な風景を描いていた。しかもこの作品には物語らしい物語がない。主人公たるヴェントゥーラは、自分の子供たち、と彼が自称するところの青年らを訪れ町をさまようだけ、それがシナリオの骨子だ。
そんな作品に対して上映後のトーク・イヴェントで、宇野邦一さんは、自分が翻訳したこの本を引き合いに出し、ベケット的な演劇空間・人物との類似を語っていた。ベケットのシナリオが同時収録されているけど、…人が抽象的な舞台装置の中で一定の歩行をするのみ(「クワッド」)とかそんなん、形而上学的というのか、演劇の極北だなあと思うが、それでいてなぜか面白そう。空間的な事柄に関する削ぎ落とし、次元の後退、無限に撤退していくことや、人の生に関して可能性を消し尽くすこと、何もしないこと、剥き出しの生を生きること。ベケットやコスタ、彼らがそうして否認を繰り返して行く先には、絶対的な存在というのを無化する何かがありそうで、全能の真逆の方向へと後ずさりして、それ自体で成立するようなものの存在を見極めようとしてる。ナンシーさんだったかなあ、神が存在するならば哲学は不要だと言ったのは、でも、神が存在しないと確定してしまったら、哲学は存在できないんじゃないかと思う。神を仮定して、その方向に向かって純朴に追いすがるのか、もしくはくるりと背を向けて一目散に逃げ出すのか、または、そちらを向きながらも、じりじりと撤退していくのか。いずれにせよ、方位磁針の針を引き寄せることのできる何かは(あ、もちろんメタファ通り、指し示す先には具体的なものは何もない)、それがあるとおそらく便利だ。まあ、あってもなくても、周囲との差異を計測するだけでも何とかなっちゃうのもまた事実だけどね。


実は先述の映画を見たのは2回目だったのですが、オーバーワークで疲労困憊しててウツラウツラしてた。も1回!次は元気な午前中に見ます。