ベルンハルト・シュリンク「朗読者」



友人と書店に行って推薦してもらいました。今まで勝手に彼に倣ってコレット梨木香歩を読んでるのですが、気質が違いすぎるのかうまいこと本の世界に入り込めなかったんだけど、ようやくオーケイな接点を見つけたよ。


主人公ミヒャエルは少年時代に、年長の恋人ハンナにさまざまな物語や詩を朗読して聞かせる。ある日忽然と彼女は姿を消すが、次に彼が彼女を目にしたのは、ナチス裁判の被告人としてだった。刑に服する彼女に対して、彼はカセット・テープに吹き込んだ朗読を送り続ける。というのがストーリーです。
彼女が文盲である、ということがストーリーの要になっていて、その為に彼女は彼に朗読をせがんだり、それを隠すために転居したり、裁判で不利な証言をすることになる。文盲を克服することの苦労は、それを隠し続けることの苦労と比べてたいしたことないように思えるけど、多分、文盲という恥辱を抱え続けることは、彼女にとって、あることから目を背け続ける意味だったようだ。彼女は刑期の中途から読み書きを学び始めて、プリモ・レーヴィらアウシュビッツの囚人の体験記を読むなどして、彼女の犯した、犯さざるを得なかった罪に向き合い始める。そして、恩赦により釈放されミヒャエルが迎えにくる当日に自死してしまう。どんなふうにして個人が大きな罪を償ったらいいのか、でも、まだそれが十分ではない今、自分が許されてしまうことだけは堪え難かったんだろう。


「朗読者」がおもしろいんだけど、と聞いてすぐメルヴィル「代書人=筆写する人」を思い浮かべるのはそう間違ってないと思う。転写しつづける人という意味を与えて、その人の特徴を代表させているんだと思うのよ。でもそれにしても、何も語らず何もしない、「I would prefer not to」と言って死んでいった代書人バートルビーとは、随分な差を生むものだ。この本の朗読者はたしかにハンナに対しては、重要なことは何も語らないし彼女の感情に拘泥することもない。でも回想録の体裁をとったこの本の中では自分の感情に対してあまりに雄弁すぎる。ひょっとして朗読するということの中には、物語を紡ぎだすという意味すら含まれていいんだろうか?発声した途端に物語はパーソナルなものになってしまうのだろうか?
(…風邪薬で頭がぼうっとしています。)