シェンキェーヴィチ「クオ・ワディス(下)」



創造的な拷問というのが存在するのだ。以前に舞城くんが「煙か土か喰い物」で、奈津川次郎が少年時代におこなう凄まじい虐めを「創造的、芸術的」と表現していたのを思い出す。犬の×××を口で×××して食いちぎって飲み込ませるの??エエエ???私も何か残虐きわまりない虐めとか思いつけないもんかしら、といろいろ考えてみたんだけど、結局何かのパクリしか作り出せなかった。大江が「遅れてきた青年」で、性的な拷問の外傷性を描いてたなぁだからやっぱりそういう類いなんだろうとか。やはり、拷問でもあるいは殺人でも、殺し方そのものが創造的であるということは極めて稀だ。世間で行われる自殺も他殺も、原因は百様でオリジナリティに溢れてても、手段はたいてい何かの模倣でありふれたものが多い。硫化水素だろうと鉈だろうと、残虐ではあっても創造的ではない。でもネロの行った処刑は明らかに創造的でギャーと思いました。史実なのかシェンキェーヴィチの創作なのか不明だけど。


あとやはり、この物語の真の主役はペトロニウスなんだと認識した。物語の最後、ペトロニウスはウィニキウス宛に長い手紙をしたためて自死するのだが、そこには旧き良きローマが、新しい善意に満ちたキリスト教に道を譲る、その苦しみが存分に記されている。ペトロニウスは、形式上は主君ネロへの反逆行為を咎められて死を選ぶのだけど、実際は、ネロと共に、ローマに殉死したんだ。彼はローマの輝ける理性を体現していた。それは人間の理性を強く信じる、人間主義の時代でもあって、だから彼は余計にキリスト教を受け入れることができない。ウィニキウスはリギアの命を救ったのはキリストの教えだと言うけれど、いや違う、ウルススの勇気じゃないか。(でもお前にはわかるまい。)そしてキリストは行動の理由すら人から奪いとり、自由な心までをも支配しようとするように見えたのだろう。「黙ってリギアを救うさ、そりゃ自分の命は危険にさらされるし彼女のことは対して好きじゃない、だけど成功したら報酬は底なしだ」というような気持ちで救うのではダメで無私でなければならないと言うのだから、これはひどい抑圧ではないか?


また、恋愛小説としての側面について。ウィニキウスはリギアに数回会っただけで彼女を情熱的に愛して、また彼女も彼の愛情に気付いて惹かれるようになる。彼は彼女の精神性を深く愛するのだけれど、その割には、彼女の性格描写はかなり手薄で、敬虔なキリスト教徒の典型に過ぎないのが一見不思議だ。彼女の外見の美しさを形容するのには、他と分け隔てるがごと丹念な描写を行うのに。ただそれが、恋愛の本質をうまく描いているようで、妙に落ち着かない。結局のところ仮面にはその人の本性の多くが属しているから、数回会っただけで恋に落ちることはありうるし、また、「告白」という名の闖入によって引き起こされる感情も間違ってないのだ、現実問題として。エエ私自身の現実問題として、ですよ←すてばち。
ジジェクさんはこの闖入のことを「抑圧」などとまあドライな精神医学用語で言いやがるんだけどわたしは断じて主張しとく。それは魔法をかけることなんだよ。