田崎英明「無能な者たちの共同体」



前の日のメモ見ててあー前向き人間て何でもこう捉えちゃうのねー、と嘆息しました。芳しからぬことはすべて正しきことの反動であってしかもそれすら肯定しうる、という。でもそうじゃないでしょ、ってこの本読んだ後自分の文章見て思った。
「空の青み」において「私」は目の前にいる女性の頭に死を注ぎこみ殺しつつあるけれど、彼は決して、その自分の身代わりである死体から目を離さず、苦痛を凝視しようとする。彼は自分の行為に効用というものを全く必要としていなくて、それが「性の快楽」や「死」という形で実行される。バタイユがやっているのは、効用を度外視した行為の実行困難さ、それに伴う苦しみを、読者の代償として文学という形で差し出すことだ。この本で田崎英明は、バタイユシモーヌ・ヴェイユを行為者として同じ地平に並べている。ヴェイユはハンストの末餓死した思想家だ。彼女は苦痛を敢えて被ることによって、受動性の権現となり、みずからの持てる能動性をすべて粉砕した。自分が自在に何かに対して振り当てることのできるエネルギーをすべて放蕩し尽くし、自分の効用を極限まで削ぎ落とした。そうして効用を削ぎ落とした先に、無能な者が現れる。彼はそれ自体がその意義となるようなトートロジーを持つことができる。世界に対して何の前後関係も位置付けも必要とせずに存在できるもの。時間も空間も彼には関係がない、一切のミメーシスを許否させる神で、それは世界と比肩するか、世界を手に入れるか、世界を超越する。
?つまり、エリアーデの「神話の模倣と反復」という宗教観を援用すると、宗教においては、神話の時空間の模倣による(都市国家の建設や暦に神話を応用する)歴史が存在しているけど、そういったミメーシス=同一化・模倣を許否した神としてエリアーデユダヤキリスト教を挙げていて、その神は世界にとって超越的な存在とみなされている、ということです。
あと、「名」が翻訳不可能であるという視点が面白いと思った。解釈もされず言い換えられず、他言語に翻訳できなくて。名は実在の置き換えになり、また名を与えることは実在することの認証でもある。とすると、声がなく思考した瞬間に伝わるという天使の言語、これは逆にそのすべてが実在しないということの証拠なのかもしれない。つまり、宛先が全く存在しない。
以下はネグリに対する私の違和感と、視線が共有されている箇所なので抜粋。


問題は、新自由主義的で軍事的なグローバル資本主義が、いたるところで近代的な主体を消去している(物理的抹殺をも含めた何重もの意味で)一方で、「価値」は消去されずに、ますます人々の行動の原因としての力を強めつつあるように思えることなのだ。………(紙幣のような)物神の重さと(溢れ返るほどの)生命の軽さ。この不均質さが物質の重さである。………ジジェクは、唯物論者として、物神性が現実に(準-)原因として人々を引き回す力を軽視しない。ネグリのような先進国型の革命的知識人は、「すでに資本の力によって私たちの社会(先進資本主義社会)はすでに共産主義となっている、後は、必要なのは、この物質的現実に気付くだけである」というような議論を展開しがちである。………私たちが特定の歴史を、社会的存在として生きるときに、不可避に纏わざるをえない「自分自身によって騙されること」、その根深さを把握しきれていないのだ。ジジェク政治的に正しい──correctではなくjustという意味で。………