アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート「マルチチュード(上)」



ネグリが来日できないことになった。彼がイタリアで実刑判決を受けていたことが、公安上嫌われたらしい。皮肉なものだ、マルチチュードの自由な移動が、<帝国>によって一時撤退を余儀なくされたとは。彼の来日はおそらく「延期」なのだろう、さもなくば彼はこんな本書いている意味が無い。…午前中の仕事が首尾よく終ったら、明日のシンポジウムには行こうかな。姜尚中の超魅力的な低音威圧ボイスに洗脳されるのも久しぶりにいいかもしんない。ていうか「麒麟です。」って言ってほしい。


この件のいざこざで一般の報道にもネグリの名が登場してて彼の思想も紹介してて、うーんこれは絶対誤解しやすいと思ったのは、どの解説も<帝国>とマルチチュードを対抗しあうものとして完全に対置していたことだ。対抗しあっているのは事実だけど、この2つはおそらく、存在論的には同じ事柄の、別の側面を名付けているに過ぎない。ネグリマルチチュードの拠点を<帝国>内部だと繰り返しているし、<帝国>は外部を必要としない存在だ。弁証法はほんとにわかりやすい思考のツールだからこういう解説になってしまうんだろうけど、いいかげん卒業したいよね。
本書では、近年の戦争についての省察がおもしろい。ネグリは、最近の戦争はすべて<帝国>内の内戦であると言う。国同士の互いの利益のための戦いではなく、国の内部での権利の主張のための戦いなのだと。そのため戦争は、ある特殊な状況というよりは常に潜在している危機として扱われて、それに対抗するために、<帝国>の軍隊は公安警察のようなあらわれ方をする。ただし、その公安活動に正当性を与えるために、強大な仮想敵を必要としてる。かつて合州国大統領が「テロとの戦争」と宣言したときそれは既に本来の戦争の定義から逸脱していたんだけど、結局のところ彼はグローバルな<帝国>の中の内戦についてそう述べていた訳で、その後米軍はまさに警察活動を行った。ビン・ラディンという強烈な仮想敵もいた。
ここで、敵を捏造するその効果には十分に注意しなければならない。<帝国>内に潜在しているマルチチュードの運動は時として苛烈になって、<帝国>はそれを押し潰すために、そのマルチチュードの振る舞いを危険分子の反乱として認識せしめることになる。それは、<帝国>とマルチチュードの対抗の中での、<帝国>側の戦略なのだ。だからその敵がほんとうに非情な犯罪(そう、これは戦争ではなく犯罪なのだ)を犯したのか、常に検討されなければならない。
特に、わたしたちはフーコーの後の世界を生きているのだし。何らかの捏造の装置がはたらいたとき、それは常にわたしたち側の意識の問題に反転する可能性がある。