アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート「<帝国>」



本文だけで500ページ、厚さ4cmの大著!第一部で公安・警察・国家、第二部でポストコロニアリズムポストモダニズム、第三部で政治・経済、それぞれについて<帝国>を考察し、第四部で結という構成だ。第一部と第二部が最近読んでる分野と地続きになってたので、あの、思考が広がってくワクワクした感じというのを存分に味わいながら読めて楽しかった。
ものすごく端的でパーソナルな言い方だけど、ネグリの言う<帝国>というのは、皆でよってたかってサダム・フセインを殺した、あの不気味な連帯のことだ。イラク政治の真空状態に顔を覗かせた、ぞっとするあいつ。そういう「皆の連帯」のことを彼は、「マルチチュードの<帝国>」と呼んでいる。その<帝国>というのは例外状態(法の停止した状態、戦時下など)において力を発現しやすくて、かつその状態のとき、アメリカ合衆国公安警察として法を前提としない権限を身にまとう。そしてネグリは、なぜアメリカが公安警察の役割を担うのか、その必然性を、合衆国の成り立ちから、鮮やかに説明している。
また、<帝国>は現在のグローバル資本主義の限界を乗り越えるものとして提示されている。資本主義は勢力を拡大するためには常に、その外部に範囲を広げ続けなければならないが、それは例えば現在の中国市場の引く手あまたな状態を見るに歴然としてるけど、その拡大には既に限界が見えている。ネグリは、資本主義が永遠だというのはブルジョアの幻想に過ぎないと言い切る。一方で<帝国>は、それ自身の内部に更新の契機をはらんでいて、外部を必要としない。一例として、<帝国>を構成するマルチチュードには様々な民族や人種が含まれるんだけど、それらはヘゲモニー的な力に対抗するあまりに、むしろ自分たちの中に固有性を守るための規律を加えてしまいがちで、それらの力学関係を調停しようとするときに、<帝国>は顔を覗かせその刷新をはかる。…あってるかなあ?


あと単純に嬉しかったのは、ネグリが<帝国>内部における剥き出しの生を語る際に、メルヴィルバートルビー」にあわせて、クッツェー「マイケル・K」も引き合いに出していることだ。そうそう私も「マイケル・K」が描いてるのはそういう生身の生のことだと思ったのよネグリさん気が合う!私クッツェーをちゃんと読めてたんだ良かったあ。


以下は良い指摘だと思った箇所、ここにメモしとく。
「まず最初に悪が善の欠如態として措定され、しかるのちに罪がとがめられるべき善の否定として規定される。」
「貧しき者それ自身が力なのだ。………「鳥の餌食にゆだねられた(法の保護を停止され、法の外に置かれた状態)」とは、マルクスプロレタリアートを描写するのに使った言葉だが、それは近代のはじまりに原始的蓄積のプロセスのなかで、二度にわたって解放されている、まず第一に、それは主人の所有物であることから解放された(すなわち、隷属状態から解放された)。そして第二に、それは生産手段から「解放された」、すなわち土地から切り離され、みずからの労働力以外は何ひとつ売るものを持たない存在となったのである。この意味で、プロレタリアートは富の純粋な可能性となることを強いられたのである。」
「概念を構築することは、ひとつのプロジェクト、共同体というプロジェクトを現実の存在にすることである。………共有のものとはマルチチュードの具体化であり、生産であり、解放なのである。」
ホッブズはずいぶん前に、有効な支配を行なうために「あてにすることのできる<情念>は<恐怖>である」、ということを認めていた。…そしてじつのところ、恐怖の政治はつねに一種の迷信をとおして広められたのだ。」