J・M・クッツェー「マイケル・K」



鴻巣友季子さんの翻訳によるクッツェーは、一人称で行われる思考の成り行きを、言葉を次いでいくままに訳しおろすような体裁にしていて、その独特の癖がわたし好みだった。「夷狄を待ちながら」は彼女の訳ではなかった。文の流れがやや滞留気味なのが気に障って仕方なかった。ある人にその話をしたところ曰く「自分は平仮名の人の訳がいいと思う」、この本は「くぼたのぞみ」さん訳だ。外連味のない普通めいた訳、同じ著者の原文でこれが出来るのなら確かにこの方が良い。
生まれつきの兎唇という身体上の不具合は、マイケル・Kを低賃金労働者の地位に閉じ込め、女から遠ざけ、からかわれるということに慣れさせていた。誰かに強いられるだけの、感情を要さない、抑圧された生。あるときKは、(老いた母の要望で)戦争を逃れ田舎へと落ちのびる道中で、文化的な生活から次第に落伍し、他人と接することを放棄して荒野に住み始めた。そのときからKは、自分の生のためにものを考えるということをするようになる。Kは荒野の中、昆虫を食い鳥を殺し、打ち捨てられた人家から探しだしたわずかな種を大地に播く。大地とともに時間を過ごし食べて寝ることをただひとつの目的とした生を謳歌する。Kはまさに、文化的な生活を放棄することによって人間らしい生を手に入れることができた。もし、人間らしい生というものを、文化的な生活を送ることとして定義するのではなく、自在な思考と自由の経験を得ることだと定義するならばだが。しかしやがて彼は発見され療養施設に収容される。しかし、もはや文化的な施しは、彼にとっては毒でしかなかった。マイケルという名で呼ばれることのない、ただ単にKという記号のもとにしるされる生が彼にとっての充足だったのだ。
ただただ寝て食べて生きるそれだけのことの充足というのをわたしは知っている。一日中だれとも話さず。いつの間にか暗くなる窓の外を感じて眠り、空腹を感じて食べ。そうして時間を過ごし、自分がどういうことのために生きているのか考えて、生きるためにだけ生きていることを知り、そうしてでも生の時間は豊かに流れることに安堵する。しばらくすると読書だけはするようになるが、それでも人とは話さない。食べて寝て食べて寝て、食料を買いに外出するときにだけ辛うじて体裁を整えるその水準が次第に下がっていく。服装が雑になり体毛の処理をしなくなり、他人に近寄るのすら躊躇しはじめる。
語義通りに言えばニートと何ら変わりないけど、文化的な快楽を全く欲さない、テレビもネットも見ない、そんな生活は1ヶ月すら続けることは許されず強制再起動したけれど、Beruf(Max Weber、天職/就業倫理/労働義務)を放棄してただ生身の生を生きるのみ、という状態が自分は可能かもしれない、身体にインストールされてしまった文明を剥ぎ落とすことに耐えられるかもしれないという予感をさせるには十分だった。そのような栄誉ある撤退が可能なのなら、聖なる人間(Giorgio Agamben)へと深く落ち窪んでいくことにどのような障害があろう。
田舎に帰って派手な星空を見上げると急速に身体が萎縮し後退して、あまりの自分の小ささや自分の営みのささやかさに足下がふらつくことがある。蟻のように大地にへばりついて狭い範囲をうろつくだけの生だと気付いてしまった以上、その足下にある大地を耕し、粛々と生を営むという以外に何をしようがあろうか?…いや違う、あるのだけれど、ただどのくらい大地から遠のいているのか、その距離は常に計測されていなければならない。