大宮勘一郎「ベンヤミンの通行路」



曇り空の日の風景は繊細で美しい、と感じたことがあった。数週間前の午前中、等々力の駅から多摩川の方向へまっすぐにのびる道を、遅刻しないように足早に、ぱらつきはじめた雨が顔にかからないように俯いて、ただひたすら歩いていて、環八との交差点に差しかかったところで足をとめてふと顔を上げた。空一面を覆う厚い雲は、辺り一帯に、細かい光の粒子を拡散させていて、陰影のない、ただ細部が奇妙なほどにまで精密さを増し、緻密に表現された風景を出現させていた。
ヴァルター・ベンヤミンによって語られた都市の姿は、そんな風景を思い起こさせる。
この本は、ベンヤミンがテクストで言及した都市を章立てとし、彼の批評家としての生や論考の指向性との関連、彼のテクストの持つ性質と都市との関わり、そして彼のテクストについて書かれている。余韻を残すような文で纏められていて、ベンヤミン学者らしいというのか、自分の論考がこの先どう読まれていくのかということに対してとても自覚的であるように見える。また論法として、「…と考えるだけでは物足りない、むしろ…ととらえるべきだろう」という具合に、一般論を否定して再考し直すということが多数行われていて、世に出ているベンヤミン論にいかにクリシェが多いかを再認識させられる。
いくつかのフレーズやイメージが度々くりかえされ、それによってベンヤミン自身の生と都市の姿とが語られるのだが、その中でも「繋留されたままにしておかれる船」が、示唆に広がりがあってイメージも豊かだ。出航を繰り延べされ停泊したままの船の姿、それは出航を待ち続けるか、洋上への思いを馳せさせるものとして陸の視線を受け止めて、航海という機能が実用とは別の何かに転用されている。そこではない、でもここでもない、保留されたままの姿をもって、2つの世界を自由に行き交う謎の船。引き裂かれかねないふたつの世界を引き留め、けれどひとまとめの経験にはさせないもの。それはまるでパサージュのようで、内側でもなくかといって外側でもないために、暗くもなく明るくもない、薄暗がりと薄明かりの混淆した状態をしめす。しかしだからこそ、陰日向が明瞭なコントラストを生むことによって普通は破棄されてしまうような、散らばされた砕片や表面を任意に寄せ集め、そのため内在される経験はその都度ごと、一過性のものにしかなれず、多義的で、捉えきることの困難な、集めた傍からするりと散逸してしまう、逃れつづけるイメージになる。


「未来」での連載時から拝読してたしジュンク堂での田中純さんとのイヴェントにも終了間際に駆け込んだし、それなりにフォローしてきたことの親しみを込めて言いますが、「大宮勘一郎」って名前聞くたびに金色夜叉ゴッコやりたくなるのは、どうにも止められませんねぇ。。