J・M・クッツェー「夷狄を待ちながら」



国際交流基金による招聘でクッツェーが先週から来日していて、今日、新作「Diary of a Bad Year」の本人による朗読を聞きに行った。彼は長身で、赤い顔と、「snow-capped」としか言いようのない見事な白髪を持ち、聴衆というものに対して(数々の講演を行ってきただろうに)未だに慣れることができない繊細さを見せていた。とても上品で洗練された人だ。朗読は、最初こそサ行炸裂音が気になったものの、次第に饒舌になっていった。彼の小説に特徴的な、一人称で語る地の文の煩悶を、たたみかけるように早口につぶやく様子が興味深い。「Diary of a Bad Year」は、3つの散文がパラレルに展開される構成をとっているそうで、そのうちの2つを彼は交互に朗読した、「…switch、」と狭間でつぶやきながら。この構成そのものは前衛文学ならばそう珍しくない(だろう)と思うけれど、ノーベル賞作家は果たして3つの世界をどこで近接させるのだろうか。





07.12.22追記:
あんなのはそれまでに見たこともなかった。やつの両目のまえに、二つの小さな丸いガラスが針金の輪にはまってぶらさがっていた。あいつ、目が見えないのか?


という印象的な冒頭ではじまる、「夷狄を待ちながら」。辺境の町、塩害や砂漠化に悩まされながらも、移住民族の夷狄とも行商を通じて交流し、民政官と人々は静かな生活を送っていた。それが、帝国から派遣されてきた大佐が、国防目的の夷狄征伐を目論み、拷問を開始することによって静かさが破られる。夷狄の存在は、以前は町の外部にいくつもある点のうちの一つに過ぎなかったのに、いつのまにか、それによってとりかこまれる外部、周縁一帯を閉ざす曲線となり、彼らの戦術が直接的な攻撃を伴わないものであるにも関わらず、彼らの襲来を案ぜずにはおられない状況におかれる。そんな中で、民政官はただただ眠りたいと願う。


……いまでは眠れるときにはいつでも眠り、目が覚めるときにはしぶしぶ目を覚ます。眠りはもはや疲れを癒す沐浴でも活力の回復でもなく、忘却であり、寂滅による夜毎の一掃となる。…私は死人のように眠る。…こうしてひとしきり夢すら見ずに過ぎ去る熟睡の時は、私にとっては死のようなもの、あるいは時間の外へと拉致された、空白の、脱魂的な魅惑の時である。……


大佐が来るまでの静かで何も起こらない日々は、町の眠り続けと同意で、無理に叩き起こされることへの苛立ちを民政官は隠さない、彼は大佐に起こしてくれるなと願い続け、それは夷狄征伐を断念せよという言葉としてあらわれる。そしてそのことによって不如意にも、彼自身は揺り動かしに巻き込まれてしまい、町を眠らせ続けるために、自身の眠りを妨げてしまったことに苛立つ。そして拷問。他者が拷問を与えるのを看過することは彼にとっては、もはや町の法律であり町自身ですらある彼にとっては恥辱であり、彼はそれを拭い去るために、よりそれに近づこうとする。彼は夷狄の女に拷問の様子を問い、拷問の傷を愛撫し、むしろ傷つけられることに執着していく、あたかもそれが、恥辱を帳消しにすることであるかのように。


「…われわれの内奥に隠れ潜む罪をわれわれは自らに科さなければならない…他者にではなく」


町を取り囲むようである夷狄の存在に対して、平和時の民政官の趣味である木簡発掘や、町で新しい井戸を掘るときに出土する人骨といった、縦に積み重なる時間は、今またこの現在がさびれ歴史として風化していくことが明らかになるにつれ、時間軸上の特異な一点ではなくなっていく。夷狄を待ちつづける、そのことでより強化される周縁に対し、それと垂直方向の時間軸上には風化の層が淡々と堆積されていく。


「…何を見つめても、その中心がぼやけてしまったんです。まわりの縁しか見ることができません。…」




といった具合に暗喩と示唆に満ちていておもしろい小説なんですが、民政官がなぜここまで拷問に魅入られたのかがまだしっくりきません。彼がほんとうに贖罪したかったその罪は何なのだろう?そしてそれは、どうして拷問という、身体的なものによって免れられると思ったのだろうか?