大江健三郎「臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」



エドガー・アラン・ポーの詩「アナベル・リィ」をモティーフにした小説。日夏耿之介訳でときどき引用が挿入されている。ノーベル賞受賞作家や彼の映画監督の義兄や障害のある息子が出てきますが勿論私小説ではない。タイプとしては「人生の親戚」とか「もうひとりの和泉式部が生まれた日」とかと一緒で、歴史や社会における女性の存在の発露を描いた作品なんだと思います。「メイスケの母」や「サクラさん」は、強靭な精神を持って男性たちを先導し、でも輪姦や小児性愛に対して脆くも崩れさってしまう。


バイクを定脈拍で漕ぎながら読書してて、体が上気して発汗著しいんだけど、それが、性的というほどのものでもない描写を妙に艶めかしく見せて、不思議な高揚感を味わった。少女の白い裸体が草地に横たわるイメージが「アナベル・リィ」として象徴化されて扱われているんだけど、それがプシュケーやオフィーリアに匹敵するような神話的イメージにまで昇華されたように感じられたり。あと「めでしれいつくしぶ」なんていう表現に動揺したり。「愛でる」じゃなく「愛でしれる」って…「酔いしれる」とかいうのと同じで、主体の側の愉悦と快楽が感じられてすごく危うい。あとはこんなのも。英語と比較して日本語訳がセクシー過ぎて、赤面しちゃうのが運動のせいなのか本のせいなのか判りませんよ…。
And this maiden she lived with no other thought
Than to love and be loved by me.
をとめひたすらこのわれと
なまめきあひてよねんもなし。





07.12.16追記:
女性の傷みを描く描き方として、ひとつ写像を介してしまうのは生温いかもしれません。サクラさんもメイスケの母も、肝心要の蹂躙されるシーンについては、フィルムであったり舞台であったりしててあくまで再現で、だからこそ神話的なイメージが生まれるんだけど、だからこそ現実性がはぎとられてしまう。その現実が生々しく描かれることの辛さからうまいこと逃げおおせた、それでいいのかと。実際、女性であるわたしが過去に最もこたえた蹂躙の描写は、ハードボイルド作家ジョー・ゴアズが与えたものだったりします。女の子、好きな男の子がリーダー的存在になってるグループと一緒に遊びに行くんだけど、で勝ち誇りと嬉しさで満ちてて無邪気でかわいいんだけど、でも、お前らこいつまわしていいよ、ってその子に置き去られるの。後で刑事が彼女を発見したときには彼女はもう廃人のような眼をしてた。読んでてほんと辛くて文庫捨ててしまったので書名わからない。こういう類いのしんどさを女性読者に与えるような描き方でないことは確かで、まあなんでしょう、それでいいのか?
ただ最終章で、秋、サクラさんと村の女たちが、山あいにある鞘(刀のさやのような谷地形)に集まるシーンは良い締めだと思う。蹂躙された女性性を救済するというのではなく、ただ悲痛と恨みのうなり声を上げるというのは、物語が昇華されていく様子としてとても美しい。鞘は女性器のメタファーだし、そうすると紅葉は経血なので、産むことにはつながらない苦しみを思わせて、それが鮮烈すぎる。