ミルチャ・エリアーデ「令嬢クリスティナ」



エリアーデルーマニア宗教学者エリアーデという名前はたびたび聞くので、黙殺することのできない存在なんだと思う多分。と言うか、わたしはそもそも現役の学者の著作を読むのが好きで、で中沢新一みたいな現役の宗教学者がふっと思いついてレファレンスしたくなるのは20世紀の思想家だろうから、そんな中ではエリアーデは間違いなく巨頭なんだろう。でも彼らのエリアーデ像にはこの1冊じゃ全然近づけないので、あと「マイトレイ」読んでから宗教論も少しかじろうかと思ふ。
「令嬢クリスティナ」はひとことで言えば吸血ものの幻想小説。貴族クリスティナは彼女の異常な性欲を恐れた村人たちによって30年前に殺されたが、死んではいなかった。若く美しい画家の男性が彼女の屋敷を訪れると、その目の前に姿を現し誘惑する。しかし最後には村人に屋敷を破壊され心臓に杭を打ち立てられ崩壊する。という話の筋自体はとても単純。ただそれより、ドナウ川の気配とか、土の匂いとか、蚊の大群とか、怪奇現象が起こる直前の不気味な空気が面白くて、また、性行為の最中に、口唇に噛み付くキスとか、爪を立てて引っ掻くこととか、吸血と性欲とが同時に現れてるのがセクシーでいい。クリスティナというあるひとつの人格が、部屋や、屋敷や、土地一帯に蔓延していて、目をつけられた男性は、彼女の支配するエリアから出ない限りは、ひたすら恐怖やら情欲やらに追い詰められるしかない。うーん、この「目をつけられた男性」限定で不幸が降り掛かる、というのが民族学的に言えばポイントなんだろうか。これが日本の怪談ならば、屋敷を訪れたすべての人が呪われるだろう。(と言うよりは、まず村人全体が彼女によって処刑されるはずだ。)死人が、自分が死んでいるということに十分に自覚的であるならば、仮に現世に恨みを残したとしても、それは生前から知り合っていた特定の個人か、もしくは現世全体が対象になるような気がして、死後も新たに恨みの対象を増やすことなんてありえないんじゃないだろうか?死んだことないから想像だけど。和製ユーレイと洋製ユーレイとの間には、まだ生きたい、生きているはず、という生への渇望の度合いに大きな溝がある気がして、和製ユーレイには自分は彼岸にいるんだという潔さがあるのに、洋製にはそれが無くてユーレイにはユーレイなりの生が現世に於いても与えられていて、きわめて現世的な因果律に組み込まれてる、そんな気がする。
米で「リング」が公開されたときに、ビデオテープ見ただけで死ぬ運命が降り掛かるなんてこんな理不尽な呪いは考えられない、という話が出てたなあと思う。勿論例外はたくさんありそうだけど、フォークロアとしての死人への処遇や、その国での支配的な宗教が持つ死生観は、こんな形で現れてくるんだろう。