茂木健一郎「脳内現象」



クオリアの人です。(のだめの監修者のもぎぎとは別人物です。)
もともと茂木さんに対してはかなり懐疑的だけど、啓蒙用の言説をあげつらって彼を批判しちゃうのはさすがに失礼すぎるので、まとまったのはどれ読んだらいいのかなと思っていたところ、斉藤環さんがセレクトしてくれました。http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/茂木さんの回答が2ヶ月滞ってるのに何のフォローもありません、失礼な人だなぁ…、論がここ数年であまり発展していない様子なので、彼はもう学術的には淘汰されてしまうのだろうが、斉藤環の力を借りてでも何とか生き残って欲しかった。


…今日の科学は、デカルトの近代合理主義の落とし子である。その近代合理主義そもそもの出発点に、疑いえないものとしての<私>の意識の存在がある。私たちは、そのことの意味を深く噛みしめつつ、第二のデカルト的転回に向かうべきではないだろうか。……本書は、来るべき第二のデカルト的転回の、一つのきっかけになることをめざして書かれた。…
と、彼はエピローグで述べてますが、「暗黙のうち前提にしていることを疑い検討し直すこと」を転回と呼んでいるのであれば、第二の転回はどう考えても、<私>の意識の存在を疑うことが出発点のはず。でも彼は、<私>の意識の存在そのものは前提としたままで、それの科学的な解剖を行うばかり。近代的自我を無反省に信仰してしまっているようだけど、ヤル気あんの?とても理解に苦しみます。本書中にフロイトの名前が一回も出てこないけど、というか科学に比べ哲学のリファレンスが妙に古代的だけど、やっぱりわざとなんだよね?
ほぼ科学的側面からのみ語る部分は判りやすいし面白いし、池谷裕二さんなど脳について実際に専門的に研究している科学者よりも視線がジェネリックなので、脳科学の最初の紹介書として読むととても良いなと思います。けど、脳科学を意識の問題にまで遡及させるのはできてない。肝心な部分を理論ではなく読者の共感に頼って説得力を持たせてる感じで、すっきりしません。


以下、数年後に自分でここを見たときの楽しみとしてメモ。たわけたことを、と思うだろうけど。
わたしは心が脳だけに宿るなんて信じてない。たぶん数年以内に脳の部分移植は可能になるだろうし、全移植の可能性を考慮しないなんて論理としてはあり得ない。脳を移植したら、<私>の一部は失われるけど、<私>の一部は残っていて、あたかも幻肢痛が起こるかのように、身体の別の部分によって<私>の脳は再生され機能し始めると予想します(笑)。たぶんその頃までには、<私>を再生しきれないほど身体が崩壊することが死として定義されているんじゃないかな。