ロジャー・ペンローズ「皇帝の新しい心」



私がまだ高校生のときに、朝日新聞の書評欄にこの本が取り上げられてたのを何故だかよく覚えてる。当時はカオス理論や超ひも理論、ホーキングやアインシュタインマンデルブロ集合やアルゴリズムといったやや学術的な概念が、一般にも熱狂を持って迎えられていた雰囲気だったように記憶していて、それはもうすぐ新しい世紀を迎えることの祝祭と共にあったものだったかもしれない。この本は最近になって偶然に友人に推薦されて、不思議と帰るべき場所に漸く帰ったかのような心持ちで手にとった。
500ページに及ぶ分厚い書籍で、うち400ページが最新の物理数学の動向、25ページがペンローズの持論、25ページが脳科学のおさらい、50ページがタイトルの示す本論、という構成。最新つっても「当時の最新」であり私自身大学で一般教養理系必修その他を非常に浅く!勉強したのも手伝って、最初の400ページと脳科学の25ページはそうそうそうだったよねという懐かしさ満点な気持ちでページを繰った。ペンローズ持論の25ページはパラパラと。最終の50ページは論の理解に努めるというよりは、頭が非常によい人の発想の展開の自在さを楽しんだような感じ。こういう人いるんだよね稀に、たぶん彼はいつもこんな感じで喋ってるに違いない。


「計算可能性」と「非決定性」を道標にして彼の思考形式をたどってみると彼の言ってることはいろいろ興味深い。
ゲーデルヒルベルトを殆ど死に体にして数学界に絶望を与える一方だった訳ではなく、「人々はしばしばゲーデルの定理をー形式化された数学的推論の必然的な限界を示すー否定的なもののように考えている。…だが、…システムの内部では形式的に証明できないという事実にもかかわらず、われわれはP(k)が真であるということをとにかく見たのだった。」とにかく見た、というこの事実の強さを見よ。
量子力学では粒子は存在可能性の霧の中にある確率をとりながら偏在していて、それを証明するには観測するしかない。だが観測するというその過程において(ペンローズの考えでは)エントロピーが大きくなってしまい、不可逆性(時間非対称性)が生じてそれが扱うはずの次元を貶めてしまう。例えばこの証明不可能性も致命的な訳だけれど、とにかくも粒子のふるまいは計算可能で見ることができる。また、粒子の存在そのものが確率論的であるしもともとは時空を扱う理論だから、予め因果律に従うことは周到に忌避されていて(因果律は原因と結果が必ず一方通行であるが、そういうふるまいになりようがない)、そういう意味ではかなり決定論からは隔たりがある。量子力学のそういう奇妙な性質は、多分ペンローズの中では、人間の心の記述といささかSF的飛躍ではあるけれどテレポーテーションへの応用とに想像されている。「テレポーテーション=人間の心を記述するデータの転送」という彼の考え方に見られるように、量子力学的な方法論を現行のArtificial_Intelligence研究に援用して、人間の心の記述とその心の自由移動、多分時空を自由に!までをも思い描いているのかもしれない。