福原泰平「ラカン 鏡像段階」



フランスの哲学者(精神分析医)ラカンの紹介書。こういう紹介書読むのすごく久しぶりかも。ラカンの思想ばかりでなく生い立ちやら私生活やら、バタイユの妻との仲にまでふれているのが人間臭くて楽しい。ラカンを批判的に乗り越えるという気がまるでないのもなかなか新鮮だ。男性と女性を自我の成立においてくっきり二分するのとか……と思うが、そこはそれ、批判もしないしその後の展開もしつこく追い掛けないのが紹介書たるゆえん。ああ、この学説、淘汰されずに生き残ってるんだろうか、知りたい。
赤ちゃんが自分の姿を鏡で見て自我というゲシュタルトを認識していくように、自我やその欲望が常に外部に投影されたその対象をもってしか認識されない←あってる?)というのは首肯を誘われるな。自我における生の発生と終焉によく辻褄があっているように思え、かつ身近な具体例をいくつも挙げられそうだ。
基本的にフロイト精神分析と同様、臨床における症例を下敷きにした論が多いようで、なおかつ鏡像段階論のような、自らが承認可能な事例まで含んでいるのだから、もう少し一般書として広く出回ってもいい思想家だと思うんだけど。ポピュラリティを獲得すると数多くの誤謬がつきまとってしまうけど、やや手垢のついてしまったフロイトに代わり、精神医学の良いトリガーになるのじゃないですかね。…と思ったら、斉藤環がやってるのか。さすが。
ところでこの本でオイディプスの戯曲にラカンの思想をなぞらえて紹介しているのだけど、私が岩波文庫版で読んだオイディプスと話が若干違う。何を下敷きにしてるんだろうか?