「未来」2006年12月号(No.483)



「殺して終わり」の欺瞞性 についての覚え書き:
12/30にイラク元大統領の死刑が執行された。この年末に…というか、いや年末は暴動が起きにくいのか、ああそれに中間選挙の敗北とか、などと思いつつ、とは言っても兎に角もイラクは占領された訳ではなかったから、きちんとイラクの国内法にのっとって裁判は行われ争乱の首謀者は処刑された。一国の首領がその国の民衆によって処刑、怖いことだ。民主主義が万能の統治方法ではないことは誰もがうすうす気付いているだろうに、これからの中東は一体どうなってしまうのだろう。
諸悪の根源として十分に民衆に想定せしめてからの処刑(←森達也はこれを仮想敵と呼ぶ)、旧体制下では認められていた施政を新体制において遡及し新しい法を適用して処罰すること、あるいは政治的意図、これらが人ひとりの死刑に込められた。極刑であることとそれが死刑であること、この差はやはり大きい。特に今回の死刑は祝祭的な意義すら帯びているようで、そのことが中世における革命での断頭台のようなアナクロニックな祭典を思い起こさせる。でも実は、それが民衆に与える効果というのがその後の統治にとって良い可能性もある、カタルシスを生んでいるかもしれなくて、こういう類いの死刑は他とは切り分けて考えないといけないのだろうか?とは言っても、最近の誇張報道と死刑執行の迅速さは、他のもこの類いの死刑に性質を近付けさせるかもしれない。
死刑制度についてはひとまずは存続反対なんだが、「だってそれが全世界的な流れだし(EU加盟の条件になっている)犯罪抑止効果ないし(統計的に証明されている)」というのは多分、死刑制度を新たに創設しない理由にはなっても存続させない理由としては弱い。「人権を侵している(かもしれない)」というのも、そもそも侵された人権の代償としての死刑という一面も否定できない(死をもって償え)ので、これもやはり弱い。何でわたしは反対なんだろうか。