平野啓一郎「日蝕」



しばらく前に古本屋の100均で購入して(←赤線が引いてあるから?)寝かせていたのを読了。
内容は15世紀末フランスのドミニコ会修道士の懐古。なんか振り回されっ放しだった。冒頭は森鴎外舞姫」の前半を読んだような印象で、宗教的教義に反するような過去のあやまちの話かなと思いながら読み進めたんだけど。半分にさしかかるところで異端審問ネタかと思わせる印象的なシーンがあり、突如ウンベルト・エーコ薔薇の名前」を思い出して、古文書の謎や地勢の奇妙な符号が今後ストーリーに加担していくわけだなと合点しながら読んでて。そのうちオイオイさっきの伏線じゃなかったのかよ!消化してないじゃん!というまま一気にストーリーがクライマックスに突入!異端審問の憂き目に合うのは結局、外見が異常な人だったので、そりゃ魔女と目されてしまうだろうよとか思ってしまうあたり、「正常な人が危機的状況の中で異端として祀り上げられてしまう不条理劇」を自分ででっちあげつつあったらしい。そんな訳で、「若さゆえの過ち懐古録→衒学的ミステリ→不条理劇」といったミスリーディングを経て全体を最後に眺めてようやく思いあたった。ああ宗教的高揚か。
15世紀フランス修道士の語る幻想的なストーリーということで、日本近代文学の文体を用いている。一人称の物語でのパスティーシュという方法は有効だし面白いと思うんだけど、設定された属性があまりにも読み手とかけ離れていると、語り手の心境の追っかけにくさ、主眼点の不明瞭さに拍車をかけてしまうんじゃなかろうか。「日蝕」の場合は語り手が神学者であり布教や教義に悩んでいたという設定で、もともと現代日本にはなじみが薄い。文を読んでその意味内容を了解することと、読んでる文そのものが含む背景を了承することとでは、話が違う。「日蝕」では後者がなかなか困難なものだから、前者に失敗しやすいんじゃないだろうか?
例えば舞城王太郎阿修羅ガール」も一人称モノ。語り手は彼女の行動と思考から考えて明らかに往時のコギャルなんだけど、文体はあくまでコギャル「テイスト」。当時よく報道されてた「コギャルの言葉」を全然採用していない。(おまけに単行本の表紙の写真があきらかに清楚でスポーティな女子学生であり、どちらかというとこの写真のような女子高生を想像しながら本文を読んでしまうんだ。)最近起きた事件の被害者である女子中学生のblogを見て、「うわァ…(隔絶感)」と感じた人は少なくないと思うけど、語り手の文体そのものが理解を阻害してしまうことって、往々にしてあるもんだ。