アルフォンソ・リンギス「何も共有していない者たちの共同体」



死をとおした連帯「死の共同体」についていろいろ考えさせるもの。(この点でナンシーさんつながり。)
アフリカや中東、遠い異国の地で今日も多くの人々が戦争や貧困のうちに亡くなっているということは、多くの人がわかっていること。ただどうやったって、死を実感し援助の手を差し伸べるなんて、手の届く距離内にその死がない限りはなかなか難しいんだ。日々報道される大量の死を見てどうやってそれを引き受けたらいい?自分の上に覆い被された死を、自分が属する死の共同体を、どこまで拡張できる?もう8年も前だろうか、アルバイト先の先輩が自殺しその葬儀に出席したことがあった。私が死の共同体を実感したのはそのときだ。祖父母の死ではなかった。彼に訪れるとは到底思えなかった死、自分にもひょっとしたら自分の意志によってでさえ訪れるかもしれない死。まさにメメント・モリと言い渡されたこの気持ち、どうよ?最近の世界情勢見て同じ気持ちになっていたら、どんなにか誇らしい気持ちでこの本を読んだことだろう。
他人の死について。自分が知ることのできる死というのは、必ず他人の死であること。つまり、ある共同体の中で意識される死という概念は、必ず他人の死という形で現れること。また死の定義は、状況によって左右される流動的なものであること。例えば心停止か脳死か、生前何ヶ月までかは、政治状況、医療の発達などに左右される。
自分の死について。自分の死がどういうものなのかは決して知ることができないという意味で、絶対の他者性を持つこと。また、自分の死は自分にしか訪れないという固有性。それと同時に、自分の生を固有づける唯一のもの(代替不可能な唯一のもの。)でもある死。誰も逃れられず、誰の替わりもできない。
そして逆に生の中では、自分がいなくても誰かが替わりに存在できていたはずだという感覚を与える。「この自分」が存在する意義は特にないんだということ。代替可能な存在。これをリンギスは否定しない。「私は、別の人間が退いた場所に生まれ、他者が進んだ道を歩くように送り出されたのだ。(本文引用)」そしてその道の上に、いろいろな可能性ー他人が実現しようと思った、あるいは自分のために残されたーが転がっている。連鎖する生、というイメージをニーチェ永遠回帰に結びつけて彼は話す。私も別の人間も属しているこの共同体は、今私が歩いているまさにこの道を、これ以前もこれ以降も何回も何回も永遠に歩き続ける強い指向があるってことだ。永遠に同じ道を!一回だからこその生き生きとした生、なんて詭弁(というか方便)を弄さずとも、この生はすでに強い意志に満ちて生き生きとしている!
リンギスさん、メルロ=ポンティの「見えるものと見えないもの」の英訳をされた方だそうです。3へえ。まだ哲学のての字もわからなかった頃に日本語訳を読んで、わかったのかわからなかったのかすらわからなかった記憶があります。エポケーとか投企とか言葉だけは妙に心に残りましたが。