エドワード・W・サイード「知識人とは何か」



BBCの講演シリーズの収録です。なのでとても読みやすい。
コロンビア大でのサイードの講義の聴講生選抜で、ベトナム退役軍人(空軍)に「軍隊で君は実際に何をしてきたか」と問うたところ、「目標捕捉」と返答されて衝撃を受けた、というくだりに不謹慎にも爆笑。当時のアメリカには、このテのアプレゲールが蔓延してたなんてことないよな?アイラ・レヴィン「死の接吻」のラストシーンでも、主人公である(太平洋戦争の)復員兵は、戦地で遭遇した日本兵の失禁する様子を思い浮かべるんだけども、こういう精神問題いまひとつよく掴めない。
イードはアラブ系パレスチナ人。パレスチナの地に対して英米が行ったことを真っ向から批判する人は少なかった。中東を巡る情勢が変われば、イスラエル情勢を語る言論は簡単に趨勢が逆転し、主張を覆す知識人が続出する。政府やアカデミー、あるいは大衆に対して知識人が迎合してしまうことをとことん批判する言説に、彼個人の怒りまで見てとれるようだ。彼ほど明確に、当事者であるところの問題に切り込むことのできた人はいるのだろうか?解説を書いている姜尚中は在日の身であるので、祖国を離れ祖国の侵攻に加担した国にいる、という点ではサイードと共通した立場にある。だが彼は、日本国籍がないにもかかわらず国家公務員(東大教授)の任を受けた。日本と半島との間のポスト植民地問題をパフォーマティブに批評したんだとも言えるけれど、そもそも着任依頼だって、アカデミーによる宣伝という一面を否定できるものじゃない。彼は、サイードの批判したところの「体制の庇護の下」にいることの齟齬を、どう消化しているんだろう。カン様…。
また、話が違うけれども、フェミニズムについては、当事者が語るということをどう捉えたらいいんだろうか?識者はほとんど女性であり、女性すなわち被抑圧側であるということそのものが論に説得力を持たせてる訳で。それ自体は悪いことでは無さそうだけれど、もう少し自覚的にならないといけないんじゃないか?浅薄な見方だけれど、男性すなわち抑圧側が批判しにくいような居心地の悪い状況がある気がしてならない。被抑圧状態からの解放を求める、というんじゃなく、ジェンダーが築かれるに至った史実や世界情勢を正確に捉え、その構築そのものを骨抜きにしたほうがいいんじゃないの?それこそ、サイードが「オリエンタリズム」でやってみせたように。
エー、ここまで書いて気づいたんですが、ひょっとしてクイア理論てそういうのですか?まだよくわかってないんですが。