ミシェル・フーコー「性の歴史1 知への意思」

Michel Foucault「The History of Sexuality Vol.1:The Will to Knowledge」


次のような反論があるかも知れぬ。言説のこのような増殖は、そこに単なる量的な現象を、単純な増大であるような何かを見ただけでは間違いであると。つまりそこで言われている内容はどうでもよいとか、それについて語ること自体が、それを語る際に課せられる要請の形式よりも重要であるかのようにしてだ。というのも、このような性の言説化は、現実の世界から、生殖という厳密な運用構造(エコノミー)に従わない性的欲望(セクシュアリテ)の形態を追い出すという務めに定められているのではないか。不毛な活動を否定し、的外れの快楽を追放し、生殖を目的としない行動を減少あるいは排除しようというのではないか。これほど多くの言説を通じて、人々は、取るに足らぬ倒錯を法的にますます断罪するに至った。性的に不規則なものを精神病に結びつけた、幼児期から老年に至るまで、性的発達の基準を決定し、すべての可能な逸脱を注意深く特徴づけた。教育上の管理と医学的治療法とを組織した。取るに足らぬ気紛れな行為のまわりに、道学者と、とりわけ医師とが、大袈裟な嫌悪の語彙を狩り集めた。こういうすべては、生殖に中心を定めた性行動(セクシュアリテ)のために、かくも多くの実りなき快楽を吸収するために仕組まれた様々な手段なのではないか。性行動のまわりに、過去二、三世紀にわたって、我々がかしましく繰り展げた饒舌なこの注意は、一つの基本的な配慮に基づくものではないのか。すなわち、人口の増殖を保証し、労働力を再生産し、社会的関係をそのままの形で更新すること、要するに、経済的に有用であり、政治的に保守的な性行動を整備することである。(p.47)


西洋社会は、告白というものを、そこから真理の算出が期待されている主要な儀式の一つに組み入れていた。……「告白(aveu)」という語ならびにこの語が指し示してきた法律的機能の変遷は、それ自体において特徴的である。他者によってある人間に与えられる、身分、本性、価値の保証としての「告白」(例えば告解)から、ある人間による、自分自身の行為と思考の認知としての「告白」(自白)へと移ったのである。……我々の社会は、異常なほど告白を好む社会となったのである。告白はその作用を遥か遠くまで広めることになった。裁判において、医学において、教育において、家族関係において、愛の関係において、最も日常的次元から最も厳かな儀式に至るまでである。(p.76)


……権力は規律を宣言することによって働きかける。性に対する権力の介入は、言語によってなされる、というかむしろ、それがまさに言説として発せられるという事実によって、一つの法律状態を作り出すような言説行為を通じてなされるあろう。権力が語る、するとそれは規律なのだ。……近づいてはならぬ、触れてはならぬ、味わってならぬ、快楽を覚えてはならぬ、語ってはならぬ、姿を見せてはならぬ。極言すれば、存在してもならぬのだ、闇と秘密の中でなければ。性に対して権力は、ただ禁止法のみを働かせるはずだ。その目的とは、性が自分自身を放棄すること。その道具とは、性の消去に他ならぬ罰という脅迫である。汝自身を放棄せよ、違反すれば消去されよう。消されるのがいやならば、姿を見せるな。お前の存在は、ただお前の廃絶によってのみ保たれるだろう。……(p.109)


権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが公使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ。(p.119)


長いあいだ、君主の至上権を特徴づける特権の一つは、生と死に対する権利(生殺与奪の権)であった。(p.171)


死刑は長い間、戦争と並んで、剣の権利のもう一つの形態であった。それは、君主の意思、その法、その人格に危害を加える者に対する君主の対応をなしていた。死刑場で死ぬ者は、戦争で死ぬ者とは正反対に、ますます少なくなっている。しかし後者が増え前者が減ったのは、まさに同じ理由によるのだ。権力が己が機能を生命の経営・管理とした時から、死刑の適用をますます困難にしているものは、人道主義的感情などではなく、権力の存在理由と権力の存在の論理とである。権力の主要な役割が、生命を保証し、支え、補強し、増殖させ、またそれを秩序立てることにあるとしたなら、どうして己が至上の大権を死の執行において行使することができようか。このような権力にとって死刑の執行は、同時に限界でありスキャンダルであり矛盾である。そこから、死刑を維持するためには、犯罪そのものの大きさではなく、犯人の異常さ、その矯正不可能であること、社会の安寧といったもののほうを強調しなければならなくなるのだ。他者にとって一種の生物学的危険であるような人間だからこそ、合法的に殺し得るのである。
死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代って、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた、と言ってもよい。死に伴う儀式が近年廃ってきたということに示される死の価値下落も、恐らくこのようにして説明されるだろう。死をうまくかわすためにする努力は、我々の社会にとって死を耐え難いものとしている新しい不安に結ばれているというよりは、むしろ、権力の手続きがひたすら死から目を外らそうとしてきたことにつながっている。(p.174)


……我々としては想像しておかなければならないのだ、性的欲望という策略と、そしてその装置を支えている権力の策略が、いかにして我々を性のこの厳しい王制に服従させて、我々をして性の秘密をこじ開け、この暗がりの中から最も真実な告白を強奪するという際限のない務めに身を捧げるまでに至らしめたのか、それを、身体と快楽の別の産出・配分構造の中では、もはやよく理解し得なくなるような日が、やがてはやって来るだろうということを。
この装置の皮肉は、そこに我々の「解放」がかかっていると信じ込ませていることだ。(p.202)


性の歴史は1〜3まであるのでまずはポイントだけ;
フロイトの功罪
・愛の告白/罪の自白の絶対性
・言説行為による律法支配
・禁止の法とBartleby
・死刑の廃れ