管啓次郎「斜線の旅」



鳥たちがいて鳥の歌がみちることが「楽園」なのだ。その背景には、鳥たちの発する音声を「歌」とみなす人の側の心がある。それにはヒトの進化の長い歴史と、その間に過ごしてきた生活環境の(鳥たちが住む土地が同時に何をもたらしてくれたかについての)記憶が関わっているにちがいない。
………多種多様な鳥が集うところ、それは森。果実と隠れ家を提供する、木々のある場所。果実を求め身を隠す場所を求めたことはたぶんヒトもおなじで、その部分の運命を共有する鳥たちの声には、ゆたかさと安全が響いていたのではないかと思う。もし鳥たちが異様に騒ぐなら、それは危険が迫っていることを知らせる。夕方の鳥の騒ぎは、夜の闇がまもなくやってくることを教え、朝の鳥の騒ぎは、一日の活動をはじめなさいと命じる。姿を見るとき、空を飛ぶ鳥はあるもっとも完成された生物だ。飛行という奇跡を現になしとげている動物、あらゆる超越的な意味を仮託される「天」にもっとも近づける生き物。その鳥たちと、ヒトの暮らしが、音でむすばれる。その音を「歌」と聞きなすのは、沈黙を恐れるせいでもあるかもしれない。真空を恐怖したように、人々は沈黙を恐れた。(p.163)


ぼくの墓碑銘はきまった
「ぼくの生涯は美しかった」
と鳥語で森の中の石に彫る
田村隆一「帰ってきた旅人」)


鳥葬は、野蛮さが微塵ほどもない美しく整えられた儀式だ。鳥についばまれた身体は、空に舞い上がり地上を眺めおろす。アーレントは言う、この進歩主義は人間の条件を克服したがる。たとえば重力によって地上に縛られるという条件。彼女のことばに耳を貸すなら、鳥になりたいという憧れは決して詩的には聞こえない。その先には、宇宙開発という現実的な未来が続いている。ならばせめて人間の条件を消滅させたあとに、鳥たちに参加しようか。言語の力を借りて、彼らの音声の直中に分け入るんだ。


「斜線の旅」はポリネシアパン・パシフィックの島々と大陸を巡る紀行文。旅行でも在住でも、あるいは観光写真を目にするのでさえ、そこに何を見るのが正しい理解なのか、全くおぼつかない。ガラパゴスと聞いてどんなイメージを思い浮かべる?思い浮かべたそれと現実とがかけ離れていたとしても、そのイメージが間違っているとは言い切れない、むしろ観念的には正しいかもしれない。スタンダールは言う、旅先で眼にとまった美しい風景画などをけっして買うものではない、なぜならその版画がじきにわれわれの持っていたいくばくかの記憶を乗っ取ってしまう。じゃあどうやって、摩滅する記憶たちを定着させようか?