堀江敏幸「熊の敷石」



彼の言いたいことは、それこそ「なんとなく」わかるような気がした。私は他人と交わるとき、その人物と「なんとなく」という感覚に基づく相互の理解が得られるか否かを判断し、呼吸があわなかった場合には、おそらくは自分にとって本当に必要な人間ではないとして、徐々に遠ざけてしまうのがつねだった。……(p.33)
親しくなる機会を持ったはずの人は多くいるのに、旧友、しばらくぶりにふと訪れて快く泊めてくれるような長いつきあいの友人、となる人は結局そんなには多くない。「なんとなく」という感覚の違いで疎遠になる人もいて、それは穏やかな別れなのだからべつに構わない。そうではなく、ふいに諍いになったときに、諍いを清算するために絶交してしまおうという考えを持つ人が意外と多いのに驚いてしまう。友人同士であれば喧嘩別れを許容し、恋愛関係ならば自分の思う通りにいかなかったら連絡を絶つという方法で。その諍いを乗り越えさえすれば後には長くつづく信頼と敬愛が待っているのに、どうして彼らは絶縁を選ぶのだろう。


「……小さい頃、家に親戚が集まると、みんなぼくにはさっぱりわからない言葉で話をしていたよ。つまりイディッシュ語で話す習慣は、ぼくの前の世代で終わったんだ。出身地の異なるユダヤ人が共通の言語で語りえた時代はもう遠い昔の話になりつつある。もちろん伝統は根強く残ってる。うちではクリスマスなんてやらないからね。でも、ぼくの両親はイディッシュ語をぼくと弟に伝えるのを止めた。それを強いるのを止めた、といったほうが正しいかな。そういう習慣を、彼らは伝えようとしなかったんだ。おばあちゃんもそれに賛成していたようだったし、過去の話は絶対にしてくれなかった。母親は、小さいときこんな話を聞いたって教えてくれたことがあるけれど、それだけだ」(p.69)
日本の家族制度が本格的に崩壊したのは高度成長期に核家族がぐんと増えた頃、わたしの父母の世代だ。土地や家に子供たちを拘束するということを良しとしない人が多い。と言うより、拘束しないということが理解力ある父母の理想形だと見なされていて、故郷に戻れと強制する親はわたしの友人界隈では聞いたことがない。当の子供であるわたしたち(理解力ある父母を持った地方出身の子供たち、本家-分家の付き合いはもうしなくていいと言い渡されている世代)は思い惑う。自分たちの代までは、終わらせるために故郷に戻ろうか?終焉の決意をかためた親たちを見上げて、自分に対しては伝えられないはずの過去のことを考える。曾祖父が分家して出てきた本家は、何代まで遡れるんだろう?姓を名乗っていたようだけれど何の職業だったんだろうか?


気配りだとか思いやりだとか、感情と行動のはざまの領域をそれらしい言葉でくくるのは、結局なんらかの規範の内部にとどまる八方美人的な姿勢だ。無意識の行動を誉められるのはありがたく、また励みにもなるが、自分がしてもらいたいことをしたまでですなどと人前で平然と口走るような輩に出くわすたびに、私はしばしば黙り込んでしまう。自分がしてもらいたいことを他人にしてあげるという理屈は、考えようによっては謙虚で、奥ゆかしくて、好意を感じさせるものだが、それはなかば自慰的な行いでもあるのだ。自分にしてほしくないことを他人にしないというのも一種のエゴイズムなのだから。(p.118)
「黙り込んでしまう」というのには共感を禁じえない。最近どぎまぎしてしまう表現のひとつが「自分が本当に食べたいと思ったものを手土産にしました」というひとこと。自慰と思いやりが共存していて、自分で言いながらも或いは相手のことばを聞きながらも、いつもあやしい(古語)気分になってしまう。


「熊の敷石」は、フランス北部に住んでいる旧友をひさしぶりに訪れた男性が語る随筆という体裁。友人宅の近隣地域出身のエミール・リトレの著作を偶然翻訳中だったことから、リトレと友人とがユダヤ人であること、さらには友人宅大家の盲目の息子と目を×で綴じられた熊のぬいぐるみ、生きた熊が敷き並べられた道の夢、敷石を投げつけた熊の登場するラ・フォンテーヌの寓話、などを連想していく意識の流れが描写されている。これが芥川賞受賞作らしい。文学的評価が相当に高い作家だから、すでに賞なんてどうでもいいんだけど。



※実際に読んでいるのは単行本の旧版、ページは旧版のもの