ジョルジョ・アガンベン「言葉と死─否定性の場所にかんするゼミナール」

Giorgio Agamben「Language and Death: The Place of Negativity」


……わたしたちはそれをわたしたちが感覚的確信のなかで言いたいとおもっているとおりのままには言っていないのである。しかしながら、見られるように、言葉で表現されたもののほうが(言いたいとおもっていることよりも)いっそう真なるものである。言葉のなかでは、わたしたちは直接わたしたちの言いたいとおもっていることに背く。そして、一般的なものが感覚的確信の真理であり、言葉はこの真理を表現しているにすぎないのであるから、わたしたちが言いたいとおもっている感覚的な存在を言葉にして表現することができるなどということは、とうていありえないのだ。(Hegel)
(……感覚的確信を言葉で表現しようと試みることは、ヘーゲルにとっては、言いたいとおもっていることを言葉で表現することの不可能性を経験することを意味している。しかし、これは、詩篇「エレウシス」におけるように、言語活動には言葉で表現できないものを発語する能力がないからではなく、まさしく一般的なものこそが感覚的確信の真理であり、それゆえ、この真理については、言語活動はこれを完璧に言葉で表現することができるからにほかならないのである。)
じっさいにも、感覚的確信は自分自身から抜け出て言いたいとおもっていることを直接的に指示しようと試みるやいなや、必然的に、それが指し示す仕草のなかで直接的に抱きしめることができると思い込んでいたものが、実際には媒介の過程であること、それどころか、まがうかたなき弁証法であって、そのようなものとしてすでにつねに否定を自らのうちに含んでいることを経験せざるを得なくなる。(p.36)


ひとり思考する。言語を断片的に使ってはいるが、思考は整序された文章にはなっていない。その思考を書き記すとき、言いたいとおもっていたはずのことを表現しきることができない。言いたいとおもっていることを言葉にしようといろいろ書きあぐねる。書かれたものは、自分の言いたいとおもっていたはずのことになかなか合致しない、むしろ、自分の言葉で否定し書き換えてしまっている。
言いたいとおもっていることと書かれたものの間の差異を埋めようという過程は、弁証法そのものだ。もしこの弁証法に強力な駆動装置をとりつけたいのなら、本を読むことは有効だろう。さまざまな言葉を勝ち得るというだけじゃない。もし弁証法を書き言葉によって実践しようと試みるなら、質のよい書き言葉を多く目にするということは、質のよい媒介を摂取するということに他ならない。ただし、いくら質のよい本を読んだとしても、それを自分の言語活動として出力していないのなら弁証法は働かず、真理には近づけない。
死という感覚的確信には決して達することができない。なぜなら認識したときには既にわたしは死んでいるからだ。死ぬのは常に他人だけだ。じっさいわたし自身の死というのは言語活動以上のものにはなりえないし、その言語活動のなかにこそ、わたしの死の真理が安置されている。わたしの死こそは固有だ。なにによっても代替えされ得ない。わたしの死は、言語活動という形で生の終点からさかのぼってくる。そしてわたしは、生きるのをやめるのではなく、死ぬことになる。死という明瞭な点が設定されることで、生きる時間にまでその固有性が浸透していくみたいだ。


<声>のうちに(すなわち、音声の非─場所のうちに、それが<存在した>ということのうちに)場所をもっているかぎりで、言語活動は時間のうちに場所をもつのである。言述行為が現に進行中であることを指し示しつつ、<声>は同時に存在と時間をも開示する。<声>は時間を定立するのである。
時間性が言表行為のなかで、また言表行為をつうじて生み出されるということは、すでにバンヴェニストも見てとっていた。……(p.94)
「あらゆる動物は暴力的な死に直面すると声を発し、自らを廃棄された自己として表出する(Hegel)」もしこのとおりだとしたら、いまやわたしたちはなぜ動物の声の文節作用が人間の言葉を誕生させ、意識の声に転化することができるのかを理解できるようになる。……その声は死が生者を死者として保存し記憶しようとしたものであり、それと同時に、そのまま死の痕跡ならびに記憶でもある、つまりは純粋の否定性でもあるということを意味している。(p.110)


以下は、「我思う故に我あり」批判との接点。双風舎斎藤環茂木健一郎の往復書簡が再開しているが、茂木にはそろそろ、このへんの批判にも耳をかしてほしい。アガンベンは時間や言語活動の論題で、しばしばハイデガーなどのドイツ哲学を使う。(ハイデガーに直接薫陶を受ける機会があったそうだ。)「幼児期と歴史」(幼児期には表立った言語活動がない、2008.09.07memo)「アウシュヴィッツの残りのもの」(人間の尊厳の核心部分は決して語られない、2008.03.20memo)、さらに「開かれ」(動物と人間の差異、2008.07.27memo)など。


……言語活動の生起を、この生起のなかで発話されていること、命題となって定式化されていることに顧慮することなしに、思考しようというわけである。……形而上学は存在をもっぱら存在者の根拠としての機能においてのみ考察しており、こうして存在を存在者に従属させてしまっている。……形而上学においては、言語活動の生起(言語活動が存在するということ)が現に進行中の言述行為において発話されていることの利益をおもんぱかって忘却されてしまうということ、すなわち、この生起(<声>)が発話されるものの根拠としてのみ考えられていて、<声>自体はそのようなものとしてはけっして思考に登場しないということを意味している。(p.234)