ヴァルター・ベンヤミン「パサージュ論(1)パリの原風景」

Walter Benjamin「The Archades Project/Das Passagen-Werk」


室内は単に私人の宇宙であるばかりでなく、またその保護ケースでもある。住むということは、痕跡を留めることである。室内ではその痕跡が強調される。覆いやカバー類、容器やケース類がふんだんに考案され、そこに日常ありきたりの実用品の痕跡が残る。居住者の痕跡も室内に残る。この痕跡を追跡する推理小説も生まれてくる。「家具の哲学」と幾篇もの推理短篇でポーは室内の最初の観相家であることを実証している。最初の推理小説の犯人は、上流紳士でもなければ無頼漢でもなく、市民層の私人である。(「パリ──十九世紀の首都」より「ルイ−フィリップあるいは室内」)


カバーやケースは、そしてさらには家具でさえ、なんだか生活のメス型みたいだ。生活をくるんで型をとって、もぬけの殻のまま残っている。住んだ生活の跡がそのまま残されるのか、もしくは所定の跡のとおりに住むことを促されるのか(アフォーダンス?)、いずれにしても痕跡をわたしは嫌っているのだろう。室内の家具の配置を頻繁に変えてしまう。しかも家具といっても収納家具はスチール棚ただ1種類のみで、服も本もプリンターも、同じ棚の中を右往左往するだけのこと。置換可能性がとにかく高い。
痕跡嫌いはたとえば、ブラウザのキャッシュを起動するごとに払いのけることにも及んでいる。ノートの片端に落書きした人物画をすぐに消してしまったり。(どうしてこんなこと思い出したのか、)昔、夏に学校のプールで、濡れた体でプールサイドに体操座りして立ち上がったときに、床のコンクリート平板に残るハート型の水染みの跡、あわててハートの谷間を指でなぞって丸くしていた。


パサージュ・デ・パノラマの店。レストラン・ヴェロン、貸本屋、楽譜屋、マルキ(チョコレートの店)、酒屋数件、メリヤス屋、小間物屋数軒、仕立て屋数軒、靴屋数軒、メリヤス屋数軒、戯画本屋数軒、ヴァリエテ座。他方、パサージュ・ヴィヴィエンヌは、質素なパサージュであった。そこには高級店はなかった。■夢の家──たくさんの小聖堂のある教会の身廊としてのパサージュ■(「パサージュ、流行品、流行品店店員」)


井の頭線の池ノ上から下北沢へと、線路に沿ってのびる細い長い道。体を塀によりそわせてやっと対向者とすれちがう。夜の暗さの中を轟音とともに通り過ぎる電車の光の帯に照らされて、蟻の巣の観察箱みたいに平たい空間が浮かび上がる。
南阿佐ヶ谷の駅前の書店、背の高い、本がぎっしり詰まった本棚と本棚とのすきまの通路を、視線をさまよわせながら歩く。教養ある人の書庫みたいな風景、今にもくずれそうに見える本棚に手をついて、大きな荷物をかかえている客たちをやっとのことでかわす。


都市が一様だというのは見かけだけのことにすぎない。それどころか、その名前さえ、都市の地区ごとにその響きを変えてしまう。夢の中を別とすれば、それぞれの都市においてほど境界という現象がそれ本来の姿で経験されうる場所はほかにない。その町を知っているということは、高架沿いや家々の間や公園の中や川岸沿いを走る境目としてのあのいくつもの線を知っているということ、そしてこれらの境界とともに、さまざまな領域の飛び地をも知っているということにほかならない。境界は(まるで別の世界への)敷居のように街路の上を走っている。そこからは、虚空へ一歩踏み出してしまったときのように、まるでそれに気づかないままに低い階段に足を踏み出してしまいでもしたかのように、ある新たな区域が始まるのである。(「太古のパリ、カタコンベ、取り壊し、パリの没落」)


ベンヤミンを読むのは、大宮勘一郎とW.G.ゼーバルトからの派生です。読んでて回想ばっかりしてしまう。