ミシェル・フーコー「言葉と物」

Michel Foucault「The Order of Things: An Archaeology of the Human Sciences」


まだ小学生の頃だったと思うが、サバンナに住む野生動物を「偶蹄類・奇蹄類」と分類して紹介しているテレビ番組を、不思議に思いながら眺めていたことがあった。ひづめが偶数個あるか奇数個あるか。単なる外見上の、それもかなり本質的でない特徴を指標にして分類しているように見えた。そのような分類をすることに意義があるんだろうか?ひづめが偶数だって奇数だって、機能的にはたいして変わりがないじゃない。そして今、「言葉と物」を読みながら自問する。どうしてわたしは、外見上の特徴は本質的でないと思ったんだろう。動物を分類するには、機能を基準にするべきだと思ったのは、何故なんだろうか。水中にいるクジラが魚類ではなく哺乳類だと言われたとき、自分の直感を覆されたにも関わらず納得してしまっていた、あのとき、納得してよかったんだろうか。


たとえば生物について研究するのに、外見的な特徴に基づいて分類するのか、進化論的な発生原理に基づいて系統を立てるのか、それとも生体の機能に基づいて秩序づけるのか、研究そのものが既に、ある特定の構造を参照するような形でなされていて、その構造は時代によって変移する。構造と仮に書いた、これがフーコーの言う「エピステーメー」で、エピステーメーの影響範囲は生物学だけには勿論とどまらない。装飾文化、医療技術、さまざまな分野におよぶ。彼はこの「言葉と物」の中で、古典主義時代以降の各時代において、知の領域でおこなわれた様々な研究についてその枠組を分析し、同じ時代に存在していた枠組のなかに同一の構造を見出すことによって、各時代を席巻したエピステーメーを発見した。
こんな彼の手法は、考古学に似ている。古典主義時代以降というのは西欧の十七世紀以降をさしていて、おそらく資料に有意性がみとめられる限りの年代にとどめたのだろう。断片として残された遺物を拾い集め、過去にどのような構造が趨勢をきわめていたのかを推測すること。それは過去をできるだけ謙虚に復元することで、考古学者の仕事の作法だ。
たとえばかつての時代には、「蛇」の項を記述するのに、性質、習性、生息地、捕獲法、神話、格言、貨幣、紋章、夢、食用途、医療用途、…これらを一緒くたに書き並べた。そんなにも色々な分野をごちゃまぜにしてもなお学問として成立するなんて、要領を得ないなと思うだろう。でもそれをおかしいと思うのは現在のエピステーメーには合致していないというだけのことで、学問として劣っていたという訳ではない。「ある生物の記述(イストワール)とは、それと世界とのあいだに張りめぐらされた意味論的網目全体の内部における、その生物の姿をそのまま描きだすことだったのである。(p.152)」エピステーメーの存在を受け入れると、自分の属しているエピステーメーから外れているものに対しても、謙虚な視点を持つことができる。


狂気の歴史が<他者>の歴史であるとすれば──すなわち、文化にとって、内部のものであるとともによそものである、それだけに排除されるべき(内なる危機を祓いのけるため)でありながら文化のなかに取りこまれる(その他者性を弱めるため)、そのようなものの歴史であるとすれば──物の秩序に関する歴史は、<同一者>の歴史──すなわち、文化にとって、分散させられていると同時に近縁関係にある、標識によって区別されるべきでありながら同一性のなかに集められねばならない、そのようなものの歴史となるであろう。(p.23)
当時話されていたような言語(ランガージュ)、知覚され蒐集されていたような自然の諸存在、実行されていたような交換、そうしたものに流れをさかのぼるように立ちもどることによって、秩序があり、その秩序の諸様相に交換がその法則を、生物がその規則性を、語がその連鎖と表象的価値を負うているという事実を、われわれの文化がどのようにあきらかにしてきたか?文法と文献学、博物学と生物学、富の研究と経済学において展開されるような諸認識の実定的台座を形成するために、秩序のどのような様相に認められ、措定され、空間と時間に結びつけられてきたか?(p.26)


フロイトが狂気を研究したのと、ゲーデル不完全性定理を発表したのは、同じく二十世紀前半だった。フロイトは狂気という外部から人間一般の無意識を究明したし、ゲーデルは外部なしでは無矛盾を証明できないことを示した。ひとつのまとまった体系内だけでは証明しきれないことがある、究明するには外部を用いるしかない、そのような性質をもつエピステーメーが存在していたのかもしれないと思う。


十七世紀のエピステーメーは表(タブロー)空間で特徴づけられる。植物学者リンネが採用した外形的な特徴を軸にして生態系を分節し分類していく手法や、貨幣と需要との間に等価関係を設定した学問など、「相等性の計算と表象の発生論とのあいだ」にはタブローが作り出されていた。それが十八世紀中盤になると、新たな思想がタブローを浸食しはじめた。生物学では、連続した世界に外徴によって分節を加えるのではなく、世界が連続しているということを、時間的な連続を空間的な連続のなかにとりこむことによって証明してしまった。人間の祖先がサルだとか陸生生物の祖先は両生類だとかいう仮説を立ててクロノロジーを同時代のなかに表出させ、単なる秩序ではなく時間を内包した歴史を、いまここの空間に描き出した。また、貨幣についても、硬貨そのものの含む金銀の含有量と、それが指し示す価値とが相関しなくなっていく。目に見える具体的なものを形式化して純粋な科学を成立させようと企てる。
区分けの構造とその指標である特徴とのあいだには機能ないし作用法則が導入され、研究対象そのものではない場所に判断の水準が置かれる。生物学にとっては哺乳類-肺と魚類-エラを「呼吸」という機能によって分類する。経済では、貨幣と小麦との価値は1対1に定まらず、流通コストや希少性によってその都度値付けされる。


さまざまな特徴(カラクテール)をたがいに従属させ、それらを機能に結びつけ、外的であると同時に内的な、可視的であるとともに不可視的な、一個の建築物のかたちにそれらを配列し、名、言説(ディスクール)、言語(ランガージュ)のそれとはべつの空間にそれらを分布させるようになる。……それらのものつさまざまな構造のうちのしかじかのものに特徴(カラクテール)としての価値をもつことを可能ならしめる、内的な法則を規定するのだ。組織は、分節化をおこなう構造と指示をおこなう特徴(カラクテール)とのあいだに介入し、両者のあいだに、深い、本質的な、内部の空間を導入するのにほかならない。……この変動はきわめて重要なひとつの帰結をもたらした。すなわち、有機的なものと無機的なものとの区別の根源化である。博物学がくりひろげていた諸存在の表(タブロー)においては、組織をもつものと組織をもたぬものとは、たんに二つの範疇を規定するのにすぎず、それらの範疇は、生物と非生物の対立と、かならずしも一致することなく交錯していた。組織が自然の特徴づけを基礎づける概念となり、可視的構造から指示への移行を可能にするようになった瞬間から、組織はそれ自体たんなる特徴(カラクテール)ではなくなるのが当然であろう。組織は、それがこれまで宿っていた分類学的空間を回避し、逆にこの組織が、ひとつの分類の可能性を生じさせるのである。まさにそのことによって、有機的なものと無機的なものの対立は基本的なものとなる。(p251)


タブローにおいては、生物と無生物との境界がさほど強く意識はされていなかったという指摘はおもしろい。近年の技術革新で、コンピュータウィルス人工知能をどちらに割り当てるか曖昧になってきたけれど、こういうことこそが、エピステーメーが綻びていく兆候なんだろう。おそらくこの問いに答えるには、どちらかに割り当てるために生物と無生物を改めて定義し直すのは正しくない。いまここのエピステーメーの後に何が来るのか、予測するのが正解なのだろう。


※ページは1974年版による