須賀敦子「須賀敦子全集(1)」



エッセイ集成。「ミラノ 霧の風景」「コルシア書店の仲間たち」「旅のあいまに」所収。


最初に正直に記しておくと、すでに膨大な量になっているはずの「いつかは読む著述家リスト」の中に須賀敦子の名前を加えたのは、福田和也講談社新書「悪の読書術」を読んでからだった。博識の彼がユーモラスに皮肉まじりに、社交術としての読書を語り尽くしたなかで、須賀敦子は彼の一押しだった。高貴な歴史を感じさせ、しかもジェンダー対策としてなかなか宜しい。そうした後、友人知人と本の話をしていると、好きな作家として須賀敦子の名前がたびたび挙がることに気がついた。彼らは、会話相手がどんな本を読んでいるのか手探りしながら、5,6番目になって、須賀敦子もいいよね、と言いはじめる。そこでわたしは、我が意を得たり、とばかりに、ほとんど「成田屋!」と言うのと同じ感覚で、「趣味いい!」と声を掛ける。福田理論を彼らは知らず知らずのうちに実践していて、わたしは彼らの生来の趣味の良さに半ば感動してしまう。


自分の身の回りの仲間たちのことを繊細に見つめた優しい眼差しがある。ただし文章そのものはかなり硬質で、しかも自らの感傷を厳密に排して書かれている。だからどこか凛々しい女性の姿を彷彿とさせる。
須賀がつとめたコルシア・デイ・セルヴィ書店の創始者ダヴィデ・マリア・トゥロルド司祭の生き様をたどりながら、わたしは、先月亡くなった韓国カトリックの聖職者のことを考えていた。体制に物申す民衆への支援を怠らず、宗派を超えた協力を促し、ドナー登録や死刑廃止を積極的に訴えていたのらしい。宗教家が自らも脱皮を繰り返しつつ、反体制の原動力になりうるのは、その宗教にとって幸せなことだ。