プラトン「国家(上)」



カフカで法とか掟とか、それの実践についてぐるぐる考えて、ああそういえばプラトンの「法律」が書棚にささってるはずだった、終わったら読んでみるの悪くないかも、とか思ってたらどっこい「国家」のほうでした、3ヶ月前に推薦されたのは。超超超古典、教養主義的なタイトルだなあ、お勉強的に読むことになんのかしら、という当初の予想をあっさり覆すおもしろさ。驚きです。
冒頭でかわされるトラシュマコスとソクラテスとの対話でもう、してやられた感じ。トラシュマコスあんちゃんのふっかける威勢のいい議論に、ぷるぷる震えながらも小出しに反論してくソクラテス超可愛い。そして、ソクラテスの論理の立て方にぶぅぶぅ不満を言いつつも、しぶしぶながら了承せざるを得なくっていつの間にか言いくるめられちゃってるトラシュマコスも素直ないい子ホントに。結局彼はちゃんと最後のほうまで、だまって、ソクラテスとポレマルコスたちとの対話を聞いていたんだしね。『……話がしばしとぎれると、彼はもはや、じっとしていられなくなって、獣のように身をちぢめて狙いをつけ、八つ裂きにせんばかりの勢いでわれわれ目がけてとびかかってきた。ぼくとポレマルコスとは、恐れをなして慌てふためいた。……なんとか彼に答えるだけの力をとりもどしたので、ぼくはぶるぶる震えながらも言った、……』『こう言ってトラシュマコスは、まるで風呂屋の三助が湯をぶっかけるような勢いで、われわれの耳にたくさんの言葉をわんさと浴せかけておいてから、そこを立ち去るつもりでいた。』名訳すぎです藤沢令夫さん。
トラシュマコスを首尾よく迎撃した後ソクラテスは、ポレマルコスやグラウコンらと対話を行うことになる。彼らは確かに反証を出したりはするし、ソクラテスに言説について追加で説明を求めることはあるけれど、基本的にはソクラテスの論に沿った形で論を引き出すことを原則とする。彼と彼らの関係は、シャーロック・ホームズとドクター・ワトソンの関係にとてもよく似ている。ホームズが、自分の推理をワトソンに説明して聞かせ、自分の考えを収斂させていくときの語りみたいだ。
『そこでぼくは、じっと目をこらして、それからこう言った、
「しめたぞ、グラウコン!どうやらわれわれは、手がかりとなる足跡をつかんだようだ。もうけっして逃げられるようなことはないと思う」
「それは吉報ですね」と彼が言った。
「なんとまあ」とぼくは言った、「われわれも間抜けだったものだ」
「とおっしゃると?」
「しっかりしてくれたまえ、君!」とぼくは言った、「もう長い間、最初からわれわれの足もとをうろつきまわっていたようなのだよ。それがなんと、われわれの目には入らなかったわけで、まことに笑止千万というほかはない。自分がちゃんと手に持っているものを探しまわる人がよくいるものだが、われわれもまさにそのとおり、それに目を向けもしないで、どこか遠くのほうばかり眺めてしらべていたわけだ。われわれが見逃していたのも、おそらくそのためだろう」』
ソクラテスもホームズも、自らが結論を引き出したいときに、助手たちの素直で何のひねりもない良識を期待して対話する。彼らとの対話の中にこそ、真の結論が生まれ出てくる。(とはいってもソクラテスはホームズとは違って、きちんと自分の手の内を明かすし、至らない者たちを教え導く作業を怠らないけどね。)


この一連の対話の中でソクラテスは、彼が理想とする国家の姿について、とりわけその与件である正義について、その姿を結実させている。上巻は、哲学者が支配者であるのが理想だという結論に到達して終わっている。具体的な内容は後でよく調べてみることにして、ひとまず不可解だったポイントだけメモ。下巻では解消されるかな?
第一に、原理論ゆえの無根拠さ。ソクラテスの論はどうやら極端に原理原則論らしい、というよりは、机上の論理と言ったほうがいいかもしれない(空論とは言わない)。国家の成立を史実クソ食らえで大雑把に述べ、証明も何も無しで事実と認定してしまい、しかもそれを土台にして論を進めている。その土台が覆った途端に積み上げた論理が脆くも崩れ去るのがわかっているんだろうか。もしくは、この国家の成立の仕方は、プラトンの時代においては無条件に事実として認められていたんだろうか。
第二に、対話の質。より単純な事項からの類推によって、大きな問題の結論を導こうという手法が多いけれど、その類推がどこまで成立しているのかがとても怪しい。羊/羊飼いと被支配者/支配者とのアナロジーを、なんの保留なく通用させてしまうなんて、ちょっと迂闊すぎ。ポレマルコスらによる検証作業が機能していないようだ。万事が「そうとは言えないかね?」「はい、その通りです。」では、ソクラテスの対話者たるには頼りない。また、どうもこの対話という形式では包括的に論を進めることは難しそうだ、国家の姿にせよ正義にせよ、任意の切り取り方を採用したらその側面からしか検討することができなくなる。また、彼らの行っている類推からは当然帰結するだろうことをも、議題に関係なしとなると無頓着になってしまうのも気になる。例えばソクラテスは対話の中で、神はあらゆる点で最もすぐれた状態にあるから、よりすぐれたものになることはできない、またより劣ったものになることはありえない、だから神は変様しないしそれを望むこともありえず、つねに単一のあり方を保って自分自身の姿のうちにとどまる、と結論する。だがこれは同時に次のような結論も導くはずだ。神はあらゆる点で最もすぐれた状態にあるから、神よりすぐれたものは存在しない、よって神はただひととおりの存在の仕方しかなくて、それは神は唯一人しかいないのと同じことだ。そう思うのに、ソクラテスは「神々」としきりに述べ立てる、これはどういうことなのよ。
第三に、実現性の乏しさ。専ら論理的整合性を重視しているためなのか、ソクラテスの理想国家は、現代においては暴論としか言えないものを多く含んでいる。若者たちは正しいこととそうでないことの区別が付かないのだから、彼らに語る物語についてはこれを検閲すべきである。妻女や子供については強き者たちの間で共有し、生まれた子供は親から引き離して育成すべきだ。劣った者たちの子供や欠陥児は、かくし去ってしまえ。『「……生まれついての病気持ちで不摂生な者は、本人にとっても他の人々にとっても生きるに値しない人間であり、医療の技術とはそのような人々のためにあるべきでもないし、またそのような人々には、たとえミダスよりもっと金持であったとしても、治療を施すべきではないと、彼らは考えていたのだ」「お話によると」と彼は言った、「大へん賢明ですね、アスクレピオスの息子たちは」』こんな暴論、どの時代においてだって、実際に許されるはずはない。(勿論ソクラテスは弁明している、実現可能なものの祖型を作っている作業なのだ、とは。)


ところで脈絡なしですが、昨日フルマラソン完走しました。ここでの振る舞いでしか私を知らない人だと、インドア系に見えるんだろうなというのを一応は否定しとく。