ジャン・ボードリヤール「消滅の技法」

Jean Baudrillard「L'ART DE LA DISPARITION」


ボードリヤールの写真論。たしか、造本はきれいだけど内容は薄いよ、という留保付きで借りたんだった記憶がある。たしかに、おそらく日本語訳をする上での演出なんだと思うが、文章がマニフェストじみているし、くされスノッブみたいな単語が出てくるし、読んでいてついつい笑ってしまって、これが微笑ましいのか失笑なのかどっちなんだ?ただこの印象は、出版年の1997年の話ということで、時代に責任をおしつけて懐かしむこともできる。でも、ボードリヤールがここで述べている、写真の撮影対象の持つ自立性、撮影者がむしろ対象によって急かされるような形で、イメージを捉えて写真に焼き付けてしまうこと、これはデジタルカメラの出現によって、論そのものが成立するかどうか、根幹をゆるがすような劣化を与えられたように見える。フィルムカメラを使用したことのない人が既にボードリヤール読者層の中に出現しはじめているだろう、写真に対して共通の認識を持たない彼らに対して、この論はどれだけ有効たりうるんだろうか。少なくとも既に、注釈なり補遺なりを必要とするレヴェルにまで社会的劣化は進んではいないだろうか?
携帯電話の写真機能やコンパクトタイプのデジタルカメラは、メモ代わりに使うことが多い(掲示板にはり出された日程をメモしたり、看板に図示された地図を書き写したりするのの代わり)。また、風景を撮影する際などは、とにかく大量に撮るだけ撮って、捨てコマがあるのは大前提、後日トリミングや補正を加えるのもごく常識、という感覚が強い。また、多機能高性能な一眼レフタイプにしても、撮影した写真の画像を手元のモニタでチェックしながら、カメラの設定を適宜修正し何枚も何枚も撮影を繰り返して、理想的な画像に近づけていくのは当たり前だ。どの使用法も、フィルムカメラの時代ではなしえなかった。仮に、ある対象を撮影する最初の動機付けが対象の持つイメージであったにせよ、何枚も撮り直したり修正を加えたりしているうちに、対象に内在するのではなく撮影者に内在するイメージのほうが、最終的には強く像を結ぶのではないだろうか?デジタルカメラで同じ対象を何回も何回も撮り直していると、最初の1枚の写真というのは未熟ながらも格別であるように見えることが多い。あれはおそらく、本当にいい写真がとれているからというよりは、撮影者側に内在するイメージをフィードバックさせていないままだから、より見慣れない、斬新な写真であるように見えるというだけのようにも思える。(あるいは、最初の1枚に対してだけ、ボードリヤールの論が適用される、ということになるのだろうか?)いずれにしても、対象と撮影者、どちらが搾取をする側であるかがゆらいでいるのが現状だ。


ところで現在書棚には、借り物のボードリヤールが3冊並んでいます。忘年会でずいぶん酒に酔って終電帰りして、翌朝かばんをのぞいてみたら、何故か無造作に突っ込んであったの。結局借りたのか…。