ジョルジョ・アガンベン「バートルビー 偶然性について」

Giorgio Agamben


I would prefer not to.
ハーマン・メルヴィル「代書人バートルビー」において、バートルビーが雇用主の法律家に対して執拗に繰り返す台詞だ。
「しないほうがいいのですが。」
「なぜ拒むんだ?」
「しないほうがいいのですが。」
「したくないのか?」
「しないほうがいいのですが。」
「しなければならないのだ。」
法律家は、バートルビーが何を言っているのかまったく理解しない。バートルビーは、仕事を拒んでもいないし受け入れてもいない、したい訳でもないししたくない訳でもない、意志も欲望も欠いた返答を繰り返していて、彼はそれをすることもできるししないこともできるままだ。彼は唯一、法の筆写は受け入れていたけれど、いつしかそれまでとりやめてしまい、ついには食事までとりやめて、しまいに餓死してしまう。


小説の冒頭において法律家は、バートルビーに関するある伝聞を、手記の最後に述べることを予告する。そのようにして念入りに意味深さを与えられたエピソードとは、「バートルビーの前職はDead Letter Office(配達不能郵便の処理局)の勤務だった」ということだった。法律家自身は、その前職が指ししめす意味を読み違えてしまうけれど、われらがアガンベンは間違わない。
法律家がDead letterについて語った言葉:「生の告知のはずが、これらの手紙は死へと行き急ぐ」
パウロが「ローマ人への手紙」に記した言葉:「生へと定められていた告知が死へと向かうものであることが私にはわかった」
この2つの同一性を掌中にして、彼は、バートルビーが前職において、告知(手紙)を丹念に救い上げつづけていたことを見極める。生を告知するはずのこの手紙は、しかし、「何かをすることができる」という潜勢力を、「為す/為した」という現勢力に変えてしまい、その時点で「それをしないことができる」という潜勢力を閉ざしてしまっていた。バートルビーは手紙を処理し続けることによって、「それをしないことができた」可能性を救済しつづけ、何かをすることもしないこともできる、どちらも真であるような存在をうみだしていた。それは完全に偶然性に左右される地平をうみだすことだとも言える。
また、パウロにおいては、告知=<法>の令状として機能する。つまり、パウロが福音を書き記すことによって、イエスの<法>は告知され執行されていた。一方でバートルビーは、Dead letterを救済し続け、旧い<法>の筆写をとりやめてしまった。イエスはかつて存在したものを贖ったけれど、バートルビーはかつて存在しなかったもの、しないことができたという可能性、イエスが取り逃がしたものを救済する、「一人の新しいキリスト(ドゥルーズ)」だった。このメシアは、中世の神学者たちが想定した全能の神以上のはたらきをする。彼らの神は自分の欲したこと以外のことを為すことができなかった、なぜなら、存在しないことができてしまったなら、それは神の永遠性を否定することになり、矛盾をきたしてしまうからだ。そのため、彼らの神は潜勢力については完全に片手落ちだった。ところがバートルビーは、欲することなしに為すことができる。したい/したくないの意志を、その存在に必要としないのだ。
こうして見ると、小説中、旧い<法>を遂行する者である法律家が、つねにバートルビーを見誤ることにも納得がいく。


このバートルビー論は、もちろんアガンベンの生政治における「宙吊りにされた、剥き出しの生」のありようについての論考に通底している。この論考の周辺では、間にバートルビーを挟んで、ヨーゼフ・K(カフカ「審判」)とマイケル・K(クッツェー「マイケル・K」)が非常に近い位置にいることに気付かされる。


さて、わたしはこれにて、いまの時点で邦訳のあるアガンベン単著は読了となった。やっぱり集中して量をこなすと、それなりに視界がひらけてくるものだ。たぶんこの種の経験は、彼よりひとまわり古い世代、ベンヤミンとかハイデガーとかデリダとかドゥルーズとかフーコーとかラカンとかシュミットとか、そういう人たちの著作を読むときに、うまいこと使える性能のいい眼鏡として機能するんだろう。



※「代書人バートルビー」は本書中にも収録されているし、以下でも読める。
バートルビー」(ハーマン・メルヴィル、訳:柴田元幸):http://www.campus.u-air.ac.jp/~gaikokugo/meisaku07/reading.html