ジョルジョ・アガンベン「人権の彼方に―政治哲学ノート」

Giorgio Agamben「Means without Ends」


幸せになりたい。
この感情は、実際には他者への羨望でしかないと思った。明らかに幸せそうである人たちを目の前にして、彼は蚊帳の外にいる。「幸せになってほしい」「幸せにしてあげたい」というありふれた、でもあたたかい言葉を述べるとき、その幸せには自分は含まれていない。常に幸せは他者のものでしかない。
自分の幸せには自分は気がつかないもの。なんていう相田みつを的発想はもちろん一蹴してこう言ってみよう、幸せは欲望のうち最も曖昧なものの一つであり、しかるに欲望の原理に従って、それは他者の上にしか存在しないし、他者によってでしか確認できない。他者の上に幸せを見いだしてそれと同質のものをこいねがい、あるいは他者に自分の幸せを認識させることによってかろうじてそれを確認しようと努める。ラカン的なこの発想を表現するのには、ジジェクの挙げたエピソードがうまく機能しそうだ。著名な美人女優としがない男が無人島にとり残されて、しばらくして2人はセックスをした。存分に楽しんだ後で男が女に言った、自分の知り合いの振りをしてくれ。そして男は話しかけた。おまえも知ってるあの女優と、俺はセックスしたんだぜ。そうしてようやく彼は彼の欲望を完遂させたのだ。


「人間は、取り返しのつかないほどに、苦しいほどに、生が幸福へと割り振られている唯一の存在なのである。」


幸福を希求するときは苦しい、なぜならその欲しいものは必ず他者によって再現されていて、なおかつ、自分ではついに得ることができないから。自分はいま幸せである、などという実感が訪れることはありえるんだろうか?わたし自身「幸福」のためのごく一般的な諸条件は満たしているほうだと思うけれど、それは一向に訪れる気配がない。ただ他者の上に見いだしてばかりで、そして自分がそれに加担できないことを感じて苦しくなることすらある。と言うより、その苦しさがもうわかっているから、加担させてもらえないという事実からなんとか逃れようとして、自らすすんで除外されることを選び、加担させてもらえることがわかりきった、2番手の幸せでなんとかやりすごそうと喘ぐことすらある。
幸福は無目的な快楽のうねりだと思う、幸せであるという感情そのものを追い求めて具体的な行動を起こすことはない、肯定的な感情ですべてが埋め尽くされたとき、楽しさを楽しむ、それ自体がその意義というトートロジーしか生まなくなったとき、快楽がまきおこり、他者の目には幸福が出現しているんだろう。バタイユは主にそれを「性」と「死」という形で捉えた。確かにそれは最も単純な形で日常生活にあらわれる。生殖をともなわないセックスはまさに気持ちよさの追求以外の何かではない。死は睡眠がその代替として現れ、意識を失ったままこの世界に現れないでいたいと願う。そしてその2つの時、必ず自己統制に苦しむ、ほとんど我を失いかけて。


「きみたちは、ただきみたちの顔であれ。境界線に向かって行け。自分の固有性、自分の能力の主体であることにとどまってはいけない。それらの下にとどまってはいけない。それらとともに、それらのうちに、それらを越えて、行くのだ。境界線に向かって、我を失って。」


動物には存在しない「開け」を被って、他者の前に立て。そのとき既にもう、取り返しがつかないほどに自分は露出されている。快楽量を推し量られ、欲望の物々交換をし、互いを慰め合い。そうして幸福そのものは消費していくことができるはずだ。
(……ハイ、いま酔っぱらいです。体裁体裁。)原題は「目的のない手段」。名著「ホモ・サケル」と同時期に書かれたらしく、生政治に関する内容も多い。(その割には上で全然触れてないのは何故でしょう。)アガンベンの、思考のためのメモ書きのような体裁だ。(このブログと存在意義が同じだけど、質が違いすぎるので大丈夫です。)本文が150ページにも満たない薄い本なのに、彼の他の著作のエッセンスが集まっていて、かつ現在の世界状況に呼応させた内容も多々含まれている。いい本だ。(今日は月もきれいだし、いい夜です。)





08.10.22追記:
「2番手の幸せ」の効用はどちらかというと、加担させてもらえなくても傷つかない、もともと執着なんてなかったんだ、と言い訳ができることにあるのかも。どちらにせよ動機が不純すぎ。そんなもん追いかけないよう注意せねば。