ジョルジョ・アガンベン「幼児期と歴史ー経験の破壊と歴史の起源」



幼児期なんていう日本語だとずいぶん狭義になってしまうけど、インファンティア=言語活動の無い状態とそれによって産出される新たな歴史について述べた本。現代においては経験が破壊され剥奪されてしまって(卑近な例で言うと、周りの人に質問をする中で実際の経験を継続的に蓄積させていくよりは、ウェブ検索で手っ取り早く仕方を調べ実行して終わること)、それは直接的に、歴史の枯渇へとつながりかねない。だから、新しい経験を理論づけることが不可欠で、それをアガンベンはインファンティアに遡及しようとしている。
言語学的な話として、生成文法的な意味合いでの生得的な言語能力と、母語として後天的に習得していく言語能力と、ふたつの言語に引き裂かれ、分裂し、この差異が生成する場所がインファンティアである。人間は必ずインファンティアであったし、いまもなおその性質は保たれている。また、言語能力の内因と外因の差異こそが経験であり(後天的なものは経験により得られる、というのではなく、先天的なものと後天的なものの差異というのは経験でしか有り得ないということ)、この経験が歴史の起源となり、人間は歴史的存在になることができる。
漫画の登場人物は、空中を歩いているということに彼が気付いたその途端、奈落へと落ちてしまう、彼は経験を知り、経験を表現せざるを得ない、非常に歴史的な人物である。


…経験の領域からの空想の切除は、エロースがみずからのうちに再結合していたものを、願望(これは空想と結びついていて、どこまで行っても満足することがなく、計測不可能なものである)と欲求(これは物質的現実と結びついていて、計測可能であり、理論的には満足することができるものである)とに切り離してしまい、両者が同一の主体において合致することはけっしてなくなってしまう。…
A「あなたは願望をもち、わたしは欲求をもっているのです」
B「あなたが肉体的欲求の親密なる外面化と感じているものは、わたしが願望の外面化された親密性と感じているものなのです」
ラカン的に他者の欲望を生きること。


民族学的に正しいこととして、遊戯と儀礼とは転倒した関係にあること。
レヴィ=ストロース儀礼は出来事を構造に変形するのにたいして、遊戯は構造を出来事に変形する、儀礼が通時態を共時態に変形するための機械であるとすれば、逆に、遊戯のほうは共時態を通時態に変形するための機械である。つまり、儀礼は聖なる時間の模倣と繰り返しを行い、神の時空間をいまここにも体現するが、遊戯は、聖なる対象や言葉を用いるけれど、意味と目的は忘却してしまい、神の時空間からは解放されている。
遊戯と儀礼は、その存在そのものが通時態と共時態が断裂していることを認めさせてしまう。そして遊戯と儀礼は、インファンティア、誕生の直後の半分人間であるような状態、死の直後にまだ人間であるような状態、に行われる。