ジョルジョ・アガンベン「残りの時ーパウロ講義」



新約聖書パウロ書簡の註解書。「ローマ人への手紙」などに含まれる語彙そのものや、思想のありかたと変遷を、彼の依って立つ思想的立場から詳細に論考している。時間に関する考察が秀逸、ハイデガーベンヤミンが主な参照元。自らの時間表象を把握するための操作時間の導入、またメシア的出来事に至って一気に時間が収縮し、それまでの時間の性質を根本的に変質させてしまう。総括帰一、要約的短縮。終焉のための時間の導入。


・召命について
おのおの自分がそれによって召された召命のうちにとどまっていなさい。奴隷として召されたのですか。そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になることができるとしても、むしろそれを(奴隷として召されたときの状態を)使いなさい。[コリント人への手紙、7]
神による救済の召命は、その召命のうちにとどまることに同意しながら、そうではないもののように振る舞うことを知り、また、彼自身はそれを所有することはできずに、ただ使用するしかない。たとえばパウロという名前。「使徒たちの中でも一番小さな者」である彼に対して与えられた、ラテン語で小さいを意味するpaulosという渾名であり、生来ではないその名前を与えられた。召命は、人間が自己自身ではないもののように振る舞うことを要請して、なおかつ自己自身を彼の所有から奪ってしまう。この二重の剥奪によって、人間は、限りなく自己自身に欠け、またはそこから逃れる存在としてあらざるを得ない。彼の主体は常に転移され、次第に欠落が増えしまいには無化してしまう。そのとき、神の掟からも律法からも疎外され外にある不法の者=法の外にいる者、彼を殺しても罪に問われないようなもの、は召命のうちにいる者にとっては、自分とは相容れない、神とは結託しない、何らの救済を拒み、それ自身の生そのものだけで存在できる強度をもつ。
また、召命は、ヴェーバーによるベルーフ(職業)、マルクスによるクラッセ(階級)に形を変え常に思考され続けた、自分の生まれ落ちたその場所と時代をどうしようか、もともと平等ではないからこそ生み出された、人はみな平等という厄介な倫理をどう扱うか。


・操作時間について、忘れえぬもの
心がある時間イメージを実現するために用いる時間のこと(ギュスターヴ・ギョーム)。
わたしたちは時間というものを経験しても、それの表象を自分では持ち続けることができない。例えば、時間軸を想定してみても、それは既に構成された時間であるに過ぎず、思考の中でまさに構成されつつある時間については、何も示してはくれない。そこで、時間の内部にただ一つのみわたしは操作時間を所有して、わたしの時間表象に対して差異や断絶を測定し続け、そのことによって時間表象をなんとか完成させ把握可能なものにする。
また、時間表象を完遂させる中で逃れてしまったもの、存在論的浪費のかす、忘れ去られてしまったものを含むすべて、あらゆる存在するものは、自らの可能態を要請する、すなわち可能なものになることを要請する。または「痕跡」(デリダ)、現前の横溢によって消え去ってしまったものの不可能さのこと、それは存在することの可能さが見捨てられ、存在する以前の何かとして取り残される。
……失われてしまったものが要請するのは、想起され追悼されることではなくて、忘れ去られてしまったものとして、失われてしまったものとして、わたしたちのうちに、わたしたちとともに残ることーそして、もっぱらそのことによって、忘れえぬものでありつづけることなのだ。……ここでは、選択は、忘却することと想起すること、無意識なままでいることと意識することとのあいだにあるのではない。決定的であるのはただひとつ、ー間断なく忘れ去られながらもー忘れえぬものでありつづけなければならないもの、なんらかの仕方でわたしたちとともにとどまっていることを要請し、なおもーわたしたちにとってーなんらかの仕方で可能であることを要請するものに忠実でありつづける能力である。……


その他
・「イエスの信仰」と「イエスへの信仰」=ユダヤ的エムナーemuna、すなわち自らが所属する共同体への客観的で直接的な信頼と、ギリシア人的ピスティスpistis、すなわち自らがそこへと改宗する信仰を主観的に真の信仰であると認めること(マルティン・ブーバー
・「むさぼるな」(モーゼ)は戒めではない。罪の認識、カフカ的な意味での審判、処罰規定のない不断の自己告発であるに過ぎない。