ジル・ドゥルーズ「記号と事件1972-1990年の対話」



原題は「折衝Pourparlers」。精神科医フェリックス・ガタリとの共著「アンチ・オイディプス」を出版して以降に、彼が発した談話のテクストをまとめたもの。訳者あとがきによると、彼は本来は対談は好まないらしいが、主に新刊書イヴェントの際に否応でもメディア対応をせざるを得なかった、文字通り「折衝」の軌跡が本文中に見てとれて興味深い。フーコーの文章「汚名に塗れた人々の生活(権力との対決を強いられ、何かを語り、みずからの姿を人目にさらすことを命じられた人)」について、ドゥルーズは傑作だの何だのとかなり主観的に大絶賛してるんだけど、これが何だか、フーコーや自分が置かれた立場を念頭においてしゃべってるように聞こえて、恨み節(笑。
ガタリとの共同作業に関して。彼らは、自分が個人であるのかどうかは全く確信が持てなくて、というより確信が持てる人なんていないでしょ?と問いかけて、だから個人個人に負わない形で「ドゥルーズ=ガタリ」という思想の形を個体化している。(一人称とか二人称とかいう言語学的な人称を拒否するのは、フーコーブランショから導入したという「誰か」という人称と不思議と呼応しあってる。)彼らは並走しあう異なる系列であり、それぞれが別の真理を持ち、お互いのを変節したり歪曲したり参照したりしながら、そこに起こる<事件>を記録して、それの個別性を強調する、そういうものとして「ドゥルーズ=ガタリ」という名前を与えているようだ。またこのことと併せて、相手すなわち人称を必要とする「愛情」とは別物として、「熱情」を主体なき個体の強度発現だ、(フーコーは熱情の人なんだ、)と述べているのは正当な認識だなと思う。
管理社会について。ドゥルーズの管理社会は、テレビセット、技術と社会を体現する装置と映像、によって管理統制されていく社会像のことだ。(どういう訳か、オーウェル的な監視社会と混同してた。)特に都市圏では、ドゥルーズの時代と現代とでは、だいぶ様相が変化しているなと思う。テレビの効力は崩壊しつつあり、かわりに監視カメラによる統制が有効になりつつあるように見える。それは何だか、既に無効になっていたはずのフーコーの監獄が、再び亡霊となって現れたみたいで不気味だ。


ドゥルーズさんにはも少しだけおつきあいする予定ですが、イロイロ読む本がたまってるのでしばし放置プレイ。以下は引用です。
・「言葉と物」でフーコーが明らかにしているのは、古典主義の時代の人間は人間そのものとして思考されたのではなく、神の「姿に似せて」思考されたということです。
・あなた(=フーコー)は、「他人にかわって語るのは下劣だ」という、とても重要なことを教えてくれた最初の人間だ。……知識人は普遍的であることをやめ、特殊になった、つまり普遍的価値の名において語るのではなく、みずからの能力と立場に応じて語るようになったのだ。