スラヴォイ・ジジェク「ラカンはこう読め!」



ラカン関連の本を読んでいて曖昧に理解してた箇所がいくぶんすっきりした。ラカン入門書・紹介書というよりは、サブテキストとしていい本だなという印象。
ラカン理論のわかりにくい概念「象徴界想像界現実界」をとてもうまく表現していてまずそれが嬉しい。チェスになぞらえて順に、「ゲームのルール(駒の動かし方と勝負判定)・駒の性格付け(ナイトか飛車かという差)・実際にゲーム中に起こる事柄」。チェスプレイヤーはゲームのルールは既に覚えてしまっていて、駒を動かすごとにいちいちルールを反芻することはなくなるけど、その時点で既に彼はルールに強く拘束されてしまっていている。このことを「ゲームのルール」から「象徴界」に遡及するとこうなる。「いちどある言語を受け入れてしまうとその言語に囚われる。」ラカンフロイト理論にソシュール言語学を持ち込んで、精神分析を哲学の中で扱いやすくしたのが最大の功績だと思う←たぶん。。)けど、そのことをよく表すかのように、ラカンの3つの世界の中でも、言語的な構造を持つ「象徴界」がとりわけ重要視されてるように見える。
ジジェクはこの本の中では、「信じていると想定される主体」という表現で、象徴的秩序の特徴を言い当てている。この秩序は例えばサンタクロース、大人は子供の前では存在しているかのような素振りをし、子供は大人の前では信じていることを演じてみせる、というような共犯関係を指す。そして宗教すらも。もはや宗教なんて誰も本気で信じてはいない、だがこれは私たちの文化の一部であり守られなければならないものだ、(そして原理主義者に向かって叫ぶ、)本気で信じるなよ。ただ、「正真正銘の信者」は常に想定されて、私たちは彼であるような振りをすることによって宗教に関わる、内的な経験なしで、信仰を得た者が祈るのと同じように祈ることによって。また、もっと身近な例に引き寄せれば、テレビのお笑い番組で挿入される笑い声も同じだと。わたしたちは笑い声があるから同じく笑いを発するし、またもっと言えば、自分たちが笑わないでいてすら、笑ったのと同じような心的効果を得ることができるようになる。
うーんなんか言い尽くせないけどすっごく面白いし濃密な本だ。ジジェク相変わらず映画やら何やらから実例(症例)を引用してきてて判りやすいことこの上ないし。ただ、象徴界の作用を中心として語ると、結論が殺伐としすぎてしまうんだよね。つまりはラカン理論の根底にある主体の欠落を強く認識させられちゃって?それを補うだけの強度のあるオルタナティブがやっぱり欲しくなるもんですよね。


以下はジジェクによる、日本語版の序文より抜粋。…ほらー、殺伐としてる。
……一体どこがそんなに恐ろしいのだろうか。それは社会的絆の崩壊である。人々が頼れる<大文字の他者>の不在、つまり信頼を保証し、義務の支えとなる基本的な象徴的契約がなくなってしまうことだ。……
……これこそが究極の「文化」ではなかろうか。文化の基本的規則のひとつは、いかにして、知らない(気付かない)ふりをし、起きたことがあたかも起きなかったかのように行動し続けるべきかを知ることである。……
……この意味で、見かけに対する極端な感受性をもつ日本人こそが、ラカンのいう<大文字の他者>の国民である。日本人は、他のどの国民よりも、仮面のほうが仮面の下の現実よりも多くの真理を含むことをよく知っている。この事実を受け入れるということは、死者として生きることを受け入れるということだ。……